稲荷山鉄剣のオオヒコと大彦命は別人て本当?

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こんにちは!yurinです。

こちらのブログの続きです。

鉄剣のオオヒコは『古事記』『日本書紀』のオオヒコと別人で着地

『古事記』『日本書紀』によれば、大彦命は8代孝元天皇の皇子で、9代開化天皇の兄、娘の御間城姫(みまきひめ)は第10代崇神天皇の皇后となり、皇子の垂仁天皇が第11代天皇として即位。

大彦命は、天皇家の外祖父で、古代のキーパーソンというべき重要人物です!

 

息子の武渟別(たけぬなかわわけ)は、同じく四道将軍で、古代の大豪族の安倍氏の先祖です。

つまりオセロの黒が白にかわるように、実在を否定してきた皇族たちの実在性が、オオヒコをきっかけとして、次々に証明されてしまいます。

 

敗戦後から席巻(せっけん)する、『古事記』『日本書紀』を否定し続けてきた、古代史学界の屋台骨がゆらいでしまうのです。

 

……ところが、ところが!出雲からでも稲荷山からでも、なにがでても揺るがないのが古代史オーソリティの信念です(大汗)!

 

「稲荷山鉄剣の銘文の意富比垝(おおひこ)と『古事記』『日本書紀』の大彦命(おおひこのみこと)は別人である」とか、「第21代雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)と、獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみの)は別人である」とか、「オオヒコは一般的な名前で、あちこちにいたその中の一人に過ぎない」という着地点を見つけて、一応の平静を取り戻しているわけです(泣)

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)も、同じように一般的な名前と、片付けてしまうのと同じです。

 

それでは初期天皇のお名前に入る、5代孝昭天皇の「カエシネ」第8代孝元天皇の「クニクル」とかは、他に決して見られない固有名詞ですけど、

第5代孝昭天皇の和風諡号は、ミマツヒコカエシネノスメラミコト

第8代孝元天皇の和風諡号は、オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト

実在していらっしゃるとは考えられないのですか?などという疑念は、ノータッチなのです。

これでは、事情のよくわからない一般人は、「日本の古代史は、なんだかわけのわからない世界だなぁ」「よくわかる戦国時代の方が面白い」と、去っていってしまうばかりです(泣)

 

そうした中で、安本美典先生、田中卓先生は、終始一貫して、

「稲荷山剣銘文中の「オオヒコ」は、『古事記』『日本書紀』の大彦命と同一人物と解釈できる」

という主張をされています(拍手)

四道将軍大彦命と子孫の栄光

『古事記』『日本書紀』の、古代の天皇や皇族の系譜は創作に過ぎない、と、否定するのは簡単なことです。

ですが、それを否定すると、日本全国にちらばる大彦命と一族ゆかりの神社や古墳や伝承はどういう過程を経て、創作されたか、説明が難しくなるばかりです。

 

『古事記』『日本書紀』に大彦ってでてくるから、この古墳を大彦命の古墳にしちゃおう~!などと、長野市の川柳(せんりゅう)将軍塚古墳や、伊賀市の御墓山(おはかやま)古墳など、勝手に大彦命のお墓を名乗ったり造作することが、果たしてできたのでしょうか?

 

大彦命は、『日本書紀』に「北陸」、『古事記』に「高志(こし)」に派遣されたと書かれていますが、長野県や三重県のお墓のことは、いっさいでてきません。

それでも、その地にゆかりのお墓があり大切にされてきたのは、大彦命と何かしら関係があるのではないでしょうか?

 

また『古事記』『日本書紀』以外でも、

大彦命の子孫が書いたとされる『高橋氏文』の高橋氏は、稲荷山鉄剣の「多加波次獲居(たかはしわけ)」と関係があるのではないか?

などモグラたたきみたいに、次々と疑問がわいてくるのです。

 

そもそも偉大な業績を成し遂げた偉人には、名前がいくつもあって、本名より一般的な名前の方が知られているのです。

神代の大国主命は、大己貴命(おおなむちのみこと)、葦原色雄(あしはらのしこお)、八千矛(やちほこ)の神、櫛玉命(くしたまのみこと)……などの名称があります。

 

源氏の祖と尊崇される源義家(みなもとのよしいえ)は、「八幡太郎(はちまんたろう」、学問の神さまの菅原道真は「天神(てんじん)さま」、日本一の出世男の豊臣秀吉は、「太閤(たいこう)」「羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)」、徳川家康は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」……。

「たろう」も「てんじんさま」も「たいこう」も「だいごんげん」も極めて一般的ですが、確かにこれらの人々は実在していました。

むしろ一般的な名称で伝えられる人こそ、当時の民衆たちに慕われた英雄だったように思われれるのです。

もの言わぬ鉄剣の輝きに大彦の威光を偲ぶ

さきたま古墳資料館では、往事の鉄剣が修復されて復元されています。

発掘後に、鉄サビと鞘(さや)の木質を落とすという、大変な尽力をかけて修復された鉄剣は、黒地に金の文字の仏壇の位牌に似て、とするのはあまりにも形容が貧困ですが(大汗)、黒光りする鋭い刃先を、往時のままに輝かせて、見事な金の115文字が刻まれた威容は、底知れない威厳が感じられました。

 

博物館では、通常、刀の展示は、横にねかせて陳列してあるのですが、七十四センチ五ミリ(通常は四十センチほど)の長身をいかして、金の文字がそのまま縦に読めるようにと、刀を真っ直ぐ立てて展示されています。

当初から文字を入れる予定で制作されたものとされます。

 

稲荷山鉄剣の名称は、剣の出土した古墳上に、お稲荷様が祭られていたことから、地元の人々は、稲荷山古墳とよんできたそうです。

 

黒光りしている鋭い刃先を、天上に向けて、往時のままに輝くほどの威容です。

一瞬も身動きできないような感動で見つめていると、鉄刀みずから、凛(りん)として、大彦命の威光を語っているように思えたのです。

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