筑後の歴史の奥深さにふれる旅【2】〜筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)〜

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筑後の歴史の奥深さにふれる旅【1】のつづきです。

まだの方はこちらから

4.古くは高木の神を祭る

大社の宝物館が開かれて、神職の方から高良大社の歴史をお伺いしました。

『古事記』『日本書紀』に登場しない、
高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が祭神であることから、

祭神は物部氏説、武内宿祢(たけのうちのすくね)説、
景行天皇説などがあるといいます。

さらに古くは高牟礼(たかむれ)山と呼ばれて、
今は摂社になる高樹(たかぎ)神社の高木の神が、
地主神ではないかというお話しもありました。

『古事記』に、高木の神は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の別名とあります。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、天照大神と並んで皇祖神とされる神です。

宮中に祭られ、地方に祭る神社は少ないのですが、
筑紫や豊前の国の境にそびえる英彦山(ひこさん)から、
高良山にかけての山間部に、高木神社が多いようです。

名前の通り、山にゆかりの神さまと思われます。

ちなみに高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫の神々は、
本州でも長野県の阿智神社、・戸隠神社、埼玉県の秩父神社、
東京都の小野神社など、海辺よりも、山間部にゆかりがあります。

5.筑紫平野の絶好のビューポイント

社務所の後ろの展望台からの眺望は見事でした。

眼下の筑紫平野の向こうには、
背振山地の奥の博多平野まで広がります。

高良大社からの筑紫平野の眺望

「卑弥呼になった気分やろ!」と、河村先生。

まさに筑紫の国々を掌握する王者の眺めです。

この地を治めた権力者たちが、必ず臨んだ光景なのでしょう。

高良大社の鎮座する久留米市は、大分方面から流れる筑後川本流と、
太宰府背後の宝満山から流れる、宝満川が合流する要衝地です。

『日本書紀』では、第26代継体天皇22年に、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)と、
筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)が激突した地とされます。

『古事記』では筑紫の君(きみ)磐井(いわい)とあります。

6.筑紫の国造(くにのみやつこ)「磐井(いわい)」と岩戸山古墳

八女市岩戸山古墳の地に、歴史資料館がオープンして三日目という幸運なタイミングでした!

岩戸山古墳は、全長170メートルの北部九州地方で最大の古墳です。

6世紀前半、古墳時代後期の築造とされ、
被葬者は筑紫の国造磐井(くにのみやつこいわい)とされます。

八女丘陵上には300基に及ぶ古墳が確認されています。

岩戸山古墳からは、石馬・石人といわれる、
当地方特有の石製品が100点以上も出土しています。

岩戸山古墳の石馬・石人

学芸員の方の説明に続いて、五分ほどの磐井の乱に関する映像を見ると、

筑紫の君(きみ)磐井(いわい)は、大陸への徴兵や食料調達で疲弊した、
北部九州の民衆の支持を得て、大和政権に勇敢に立ち向かった地元の英雄、
という地域の人々の熱い思いが伝わってくる映像です。

千葉生まれの私は、平将門が重なりました。

桓武平氏の流れをくんで、東国の民衆のために、
朝廷に反旗を翻し、東国の独立を得ようとして無念の涙を呑んだのです。

今も語り継がれる偉人です。

……ですが、歴史資料館のビデオの大伴金村は、
いかにも悪人ぽいのが、ちょっと残念なような(汗)……

『万葉集』ゆかりの大伴家持・旅人は、金村の子孫で、九州にゆかりありますし……

継体天皇も……も少し暖かいお人柄の感じの方が……
大和朝廷の危機存亡を救って即位した賢帝と思いますし。

歴史というのは、対立する双方の立場の見解を吟味した上で、
考えを深めるのが大切、とあらためて思いました。

7.血筋を同じくする人々の苦悩

『日本書紀』に、朝廷からの派遣された毛野臣(けぬのおみ)に対して、
磐井(いわい)は、

「今でこそあなたは、朝廷側の使者となって、こちらと対峙していますが、
昔は同じ仲間として、肩寄せ肘をすり合わせ、
同じ釜の飯を食べた同士ではないですか」

と言ったとあります。

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、
筑紫の国造は、四道将軍の大彦命の子孫です。

直方市の剣神社では、
筑紫国造となった、第8代孝元天皇の子孫の田道命(たみちのみこと)が、
神社をお祭りした、という由緒があります。

大彦命は、孝元天皇の皇子ですから、
『先代旧事本紀』の記事を、地元の神社伝承は裏付けています。

磐井は、もともと大和朝廷の血筋をひく一族で、
筑紫の国の統治を任されていたのではないでしょうか?

それだからこそ、磐井の苦悩も、継体天皇の苦悩も深かったのと思うのです。

派遣された物部麁鹿火も、血の涙を流すほどの戦いを
乗り越えねばならなったのでしょう。

とうとうと流れる筑後川ですが、
それ以後も戦場となることが、何度もあったようです。

「ジェイホンの流れは、人々の涙のあと……」と、
ペルシャの詩人オマル・ハイヤームが、シルクロードのアムダリアを歌ったことを、
このような時にいつも思い出します。

筑後の歴史の奥深さにふれる旅【3】につづく

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