神武東遷は古代の関ヶ原の戦い「vs長髄彦・宇摩志麻治命」

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こんにちは!yurinです。

神武天皇の東遷は、志半ばの、饒速日尊の死が大きかったようです。

そして神武天皇vs宇摩志麻治命の戦いとなりました。倭国の王を決める決戦です。

それは古代の関ヶ原の戦いで、徳川家康が神武天皇で、石田三成が長髄彦、宇摩志麻治命が豊臣秀頼……のような状況でした(大汗)

神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)の無念の戦死

神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)は、宇摩志麻治命のおじである長髄彦(ながすねびこ)軍との戦闘のさい、敵から放たれた矢で負傷して、戦死してしまいました。

『古事記』では、次のような五瀬命(いつせのみこと)の最後があります。

「賤(いや)しき奴(やつこ)が手を負いて死なむ」と男建(おたけ)びして崩(かむあが)りましき

(「ただの名もない輩(やから)の放った矢で負傷して、死んでいくのか」と、雄々しくふるまってお亡くなりになりました)

五瀬命の形見の言葉と、無念の臨終の様子は、子々孫々に伝えられたのでしょう(大泣)

 

五瀬命(いつせのみこ)の墓について『日本書紀』は記します。

進みて紀国(きのくに)の竃山(かまやま)に到りて、五瀬命(いつせのみこと)薨(かむさ)りましぬ。よりて竃山(かまやま)に葬(ほう)りまつる。

五瀬命は負傷して どうにか和歌山市までたどりついたもののその地で、お亡くなりになりました(涙)

『延喜式』「諸陵寮」に紀伊国名草郡と記されます。

今の和歌山市和田の竃山墓(かまやまのはか)とされ、式内社の竃山神社をお祭りします。

 

さらに『日本書紀』は次のように記します。

神武天皇の軍は、高倉下(たかくらじ)、八咫烏(やたがらす)の援軍を得て、いよいよあと一息で大和を掌握するところまできました。

昔孔舎衛(くさえ)の戦いに、五瀬命(いつせのみこと)、矢に中(あた)りて薨(かむさ)りませり。

天皇(すめらみこと)銜(ふふみも)ちたまいて、常に憤懟(いくみうらむること)を懐(いだ)きたまう。

この役(えだち)に至りて、意(みこころ)に窮誅(ころ)さむとす。

(以前、孔舎衛(くさえ)の戦いに、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって、お亡くなりになりました。
 
天皇はこれを忘れず、常に恨(うら)みに思っておられた。この戦いで、なんとしても敵討(かたきう)ちしたいとの思いでした)

 

その後、天皇家の中での、身内同士の争いはありました。

……ですが、125代おられる天皇の中で、敵の矢に当たって戦死する皇族など、他にいませんでした。

大変な深刻な戦いであったとみられます。

最終的に勝利したとはいえ、神武天皇の悲しみはいかばかりであったでしょうか(大涙)

 

しかし朝廷側では、神武天皇の兄を戦死させてしまった、長髄彦との姻戚関係を今さらわざわざ記す、物部氏の『先代旧事本紀』を咎(とが)めることはありませんでした。

この後『日本書紀』の講義が宮中で行われるようになると、『先代旧事本紀』が参考文献として引用されたことが知られます。

物部氏の伝承を認めたことがわかります。

その『先代旧事本紀』の巻6巻7を読むと、神武天皇の東征とそれを阻んだ物部氏の決戦の状況が読み解かれてきます。

 

宇摩志麻治命は『先代旧事本紀』の表記です。

『古事記』は、宇摩志麻遅命、『日本書紀』は、可美真手命と書かれます。

さらに『古事記』『日本書紀』では、神武天皇に帰順したのは、饒速日命(にぎはやひのみこと)になっていますが、『先代旧事本紀』の記すように、饒速日尊(命)の死による動乱、ととらえるのが適切とみられます。

氏族を表す場合、代表する人物や祖先神で、表すこともしばしばあります。

『古事記』では、宇摩志麻治(遅)命を「物部連(もののべのむらじ)の祖」と記しています。

宇摩志麻治命こと可美真手命(うましまてのみこと)像
神剣「布都(ふつ)の御魂(みたま)を抱く」

東京都中央区浜離宮庭園にて

饒速日尊と下った三十二神が神武天皇を勝利に導く

饒速日尊(にぎはやひのみこと)とともに下った三十二神といわれる人々は、分裂してしまいました。

宇摩志麻治命の異母兄の天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、宇摩志麻治命側にはつかず、神武天皇側につきました。

彼は高倉下(たかくらじ)ともいい、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』を総合すると、キーパーソンでした。

 

天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、饒速日尊が筑紫の国にいる時、天道日女命(あまのみちひめのみこと)を妻として生まれた子です。

『海部氏勘注系図』によれば、宗像三女神の多紀津姫の孫にあたります。

高倉下を祭る高座結御子(たかくらむすびみこ)神社(名古屋市)

天香語山命は天照大神と武甕槌命(たけみかづちのみこと)の意向を受けて、神武天皇に、布都御魂(ふつのみたま)の剣を献上しました。

これによって、劣勢であった神武天皇軍は再起します。

 

また神武天皇の皇軍を助けて熊野山中を先導する八咫烏(やたがらす)も、実は饒速日尊とともに下った三十二神の一人でした。

賀茂武角身命(かものたけつのみのみこと)です。

賀茂武角身(金鵄ヤタガラス)を祭る賀茂御祖(下鴨)神社(京都市)

他にも、天道根命(あまのみちねのみこと)がいます。紀伊の国造の先祖とされます。

後の紀伊の国の一の宮日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮のご神体の鏡をもって、神武天皇に従っていました。

日前国懸神宮

ほかにも、天香語山命の子の天村雲命(あめのむらくものみこと)も、神武天皇に従っているようです。

筑紫の山河の伝承にしばしばでてきます。

 

神武天皇は、兄を失うという、大変な痛手の戦いを制して、ついに大和の橿原(かしはら)の宮で、第1代天皇として即位しました。

橿原神宮

神武天皇御陵への道

饒速日尊は、南九州の神武天皇の勢力までは組み入れてなかったので、初代の天皇とは認められなかったのでした。

さらに子の宇摩志麻治命も、神武天皇に敗北します。

神武天皇は初代の天皇として、人々に認知されたのです。

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