ヤマトタケルが東征の帰路に立ち寄って、行宮を置いた場所の話と、その場所でのエピソードを教えていただきました。(kaori)
目次
酒折の宮と朝気の地名伝説
「酒折の宮」と「朝気」という地名に関する2つのエピソードを紹介しますね。
○酒折の宮
酒折の宮についてはウィキペディアより抜粋(→ウィキペディア参照)
『古事記』・『日本書紀』には、ヤマトタケル東征伝承が記されていますが、相違点もあります。
『古事記』
尾張~相模~上総~蝦夷の地
帰路は相模の足柄峠~甲斐酒折宮~科野(しなの)の坂~尾張
一方、
『日本書紀』
尾張~駿河~相模~上総~陸奥の蝦夷の地
帰路は日高見国~常陸~甲斐酒折宮~武蔵~上野碓日坂~信濃~尾張
おおよそ、往路は古代律令制の官道となった「東海道」、帰路は「東山道」を通過したとみられますが、甲斐の国は、その接点です。
帰路、甲斐国(現 山梨県)酒折の地に立ち寄って営んだ行宮(かりみや)が、酒折宮です。
酒折宮の伝承では、滞在中に、尊(みこと)が塩海足尼(しおつみのすくね、しおうみのすくね)を召して甲斐国造に任じ、火打袋を授け、その火打ち袋を神体として神社を創祀したとされます。
酒折宮には連歌伝承もあります。
『古事記』『日本書紀』には、滞在中の夜、尊(みこと)が
新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
(常陸国(茨城県)の新治・筑波を出立して、ここまでに幾晩寝ただろうか)
と問いかけると、焚き火番の老人が、
日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
(指折り数えてみますと九泊十日かかりました)
と応答しました。
尊(みこと)は、この老人の機知に感嘆したとされ、『古事記』には彼を東(あづま)の国造に任命したと記載されています。
酒折宮伝承で、「2人で1首の和歌」を詠んだという伝説から、後世に「連歌の発祥」として位置づけられたのです。
そうして連歌発祥の地として多くの学者・文学者が訪れる場所になりました。
○朝気(あさけ)の地名
『甲府市朝気通信』より抜粋
山梨県甲府市朝気1丁目。「朝気」と書いて「あさけ」と読みます。変わった読み方ですね。
なぜこのような地名がついたのでしょう。
朝気の地名、由来は古く、大和朝廷の時代までさかのぼります。
時は2世紀。
景行天皇の第二王子であったヤマトタケル(日本武尊)は、熊襲征伐に続いての東国征伐からの帰路、甲斐の国の酒折の宮に立ち寄りそこに宿泊しました。
翌朝、目覚めたヤマトタケルは煙が立ち昇っているところがあるのに気づき、その場所に行ってみたところ、そこでは朝食の支度をしていました。
住む人々はヤマトタケルを歓迎し、朝餉(あさげ)を差し上げたところから、この地は「朝気(あさけ)」と呼ばれるようになった、ということなのです。
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朝気には、朝気遺跡があり、私の通っていた東小学校の前も発掘していました。
下校途中、土器の破片を見つけて持ち帰ったことが、私の初めての古代体験です。
ただし、私の母は、「急須のかけらなんかなんで持ってきたのか。」と土器全否定でした。
(埼玉県在住 うららさんより)
yurinより返信コメント
うららさん、酒折宮とゆかりが深いお方だったのですね。
稲荷山鉄剣といい、これほど身近に古典とゆかりの地があれば、あれこれ深く思いを巡らすのも、さもありなんと拝察します。
酒折宮の石碑から、江戸時代に国学者が次々に訪れたことを知りまして、平和な時代の学問の進化をとても微笑ましく思いました。
日本武尊が塩海足尼に授けた『袋』は、倭姫命(やまとひめのみこと)のお手製の宝物だったのではないかと思いを巡らします。
『先代旧事本紀』「国造本紀」の「甲斐の国造」に記される「塩海足尼」は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫とされます。
一方、『古語拾遺』では、倭姫命(やまとひめのみこと)は、「狭穂姫命(さほひめのみこと)の子」とあるんです(狭穂姫は、謀反をおこした兄の狭穂彦とともに、幼子を残して火中でなくなった垂仁天皇の皇后)。
……悲劇の狭穂姫ですが、その娘が倭姫命という説もあるのです。
その倭姫命が、日本武尊に「袋」を授けたことは『古事記』にあります。
その倭姫命のお手製の袋を、縁者の塩海足尼に、日本武尊は手渡したのではないでしょうか?
倭姫命からいただいた「袋」の中身のうち、火打石→焼津神社、火打金→金鑚(かなさな)神社に、残したとみられ、残りの「袋」を酒折宮で、塩海足尼に授けるのは、日本武尊の暖かい人柄とともに、それをめぐる人々が偲ばれて、とてもドラマチックです(涙)
『古事記』『日本書紀』の記載が抜け落ちていることも、地元の伝承で補っていくと、それぞれ矛盾なくつながってくることに感動させられます。
また『景行天皇と日本武尊』の挿し絵を描いてくださった日香浬先生の母上は、酒折宮の地にゆかりがあるそうです。
それで挿し絵に描いた「日本武尊と火たきのおきな」の背景の山も、実際の酒折宮の背後の山をそのまま観て、思いを込めて描いた、とうかがいました。
うららさんのお便りから、少女時代のお母様とのやりとり、日香浬先生とお母様のやりとりが重なって、いっそう酒折宮が、趣(おもむき)深く感じられます。
さすがに「連歌の発祥の地」とされる場所ですね!
さまざまな人たちの思いを巡らしながら、再び訪れたいと思います。
本当ありがとうございました。