こんにちは!yurinです。
「大和は国のまほろば」と歌ったヤマトタケル。
日本を一つにするために、西へ東へ足を棒にして巡行を重ね、30年の凝縮した人生を送りました(涙)
奈良県で生まれ育ったと思われがちですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の生涯をたどってみると、出生地の謎が解き明かされます。
兵庫県の中央を流れる加古川流域の加古川市と稲美(いなみ)町。
日岡神社が祭られる日岡山(ひおかやま)のわきを、ゆったりと加古川が流れます。
これがヤマトタケルのふるさとの風景です。
今回は、そのヤマトタケルの父と母の話です。
目次
『播磨国風土記』にみる父の景行天皇と母の出会い
日本武尊(やまとたけるのみこと)の誕生は、父と母の出会いの物語から始まります。
『播磨国風土記』には、古代のロマンあふれる伝承が残されています。
日本武尊の父は第12代景行天皇、母は播磨稲日大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)です。
母のお名前に残される「稲日」が、「稲美(いなみ)」となり残っています。
『日本書紀』によると、景行天皇は即位した翌年の3月3日に、播磨地方の豪族の娘「稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)」を皇后に立てています。
日本のアレクサンドロス大王にもたとえられる景行天皇ですが、『日本書紀』に記されている妃だけで7人、皇子皇女は80人とされています(スゴッ!)
中でもその最初の妃が、日本武尊の母の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)です。
『古事記』に吉備臣の先祖、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘とあります。
若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)は、第7代孝霊天皇の皇子ですから、播磨のイナビヒメは、孝霊天皇の孫にあたります。
第12代景行天皇と、第7代孝霊天皇の孫娘とは、世代が合わないようにも思われますが、古代史学者の安本先生は、統計学的年代論により、
「政権の中枢にいる権力者の変遷に比べて、そこから遠ざかる周辺の人物になるほど世代交代はゆるやかである」
と指摘します。
都のある大和で政権抗争にさらされる天皇家よりも、大和から離れた吉備地方を統治する吉備氏族の方が、世代間の変遷はゆるやかであったとみられるのです。
武内宿禰は、景行天皇の時代の後半から、4代の天皇に仕えました。
さらに後の時代に、継体・欽明朝での活躍が知られる大伴金村はなんと、(24)仁賢・(25)武烈・(26)継体・(27)安閑・(28)宣化・(29)欽明の各天皇に仕えているのでした(拍手)!
ヤマトタケルの母は第7代孝霊天皇の子孫
『日本書紀』では第10代崇神天皇の時代に派遣された四道将軍の一人が、吉備津彦です。
このできごとについて『古事記』では、第7代孝霊天皇の時代のこととしています。
大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)とは、二柱(にはしら)相副(あいたぐ)いて、
針間(はりま=播磨)の氷河の前(さき)に忌瓮(いわいべ)を据(す)えて、針間(はりま)を道の口として吉備国を言向(ことむ)け和(やわ)したまいき。
(大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命とは、お二人を共に、播磨(はりま)の氷河(ひかわ、加古川市日岡山付近)で、神聖な土器でお祭りして祈願し、その地を前進基地として吉備の国を平定なされた。)
故(かれ)、この大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)は、吉備の上道臣(かみつみちのおみ)の祖(おや)。
次に若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)は、吉備の下道臣(しもつみち)、笠臣(かさのおみ)の祖(おや)
(大吉備津日子命は、吉備の上つ道の臣(おみ)の先祖である。若日子建吉備津日子命は、吉備の下つ道の臣(おみ)・笠の臣(おみ)の先祖である)
吉備の名を負う兄弟は、第7代孝霊天皇の子で、「邪馬台国畿内説」で卑弥呼に比定される倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の兄弟とされています。
吉備津彦とともに、兄弟の若建日子も吉備に下り、その後の吉備においては、弟の若建吉備津日子の系譜が繁栄したようです。
播磨稲日大郎姫も、日本武尊に従軍した吉備武彦(きびのたけひこ)も、日本武尊の最初の妻となった吉備穴門媛(きびあなとひめ)も若建吉備津日子の子孫とみられます。
奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳と比べて、岡山県岡山市の浦間茶臼山古墳は2分の1の相似形であることが言われていますよね。
そうしたこと事実も、古典にそって考えれば、孝霊天皇の皇子皇女たちに関係する古墳の可能性として、中国文献の邪馬台国にこだわらない考察がでてきます^^
そして『古事記』に書かれた「針間(はりま=播磨)の氷河の前(さき)」こそ、日本武尊の故郷で、加古川のほとりの日岡山付近とみられるのです。
四道将軍の一族で天皇家の結束を固める
『日本書紀』『古事記』の記事を総合すると、吉備地方へは一足早く皇族が派遣されて平定事業にあたり、その後「四道将軍」として称号を与えた、というように考えられます。
景行天皇の母は、四道将軍の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)です。
そして景行天皇の父の第11代垂仁天皇の母は、四道将軍の大彦命(おおひこのみこと)の娘の御間城姫命(みまきひめのみこと)です。
もともとは四道将軍も、天皇家から出た皇族の将軍たちですが、派遣された地方の地元の豪族の娘との婚姻関係を結びながら、各地を統治していったものとみられるのです。
その後さらに四道将軍の子孫たちも、各時代を通じて婚姻により結束を強固にして各地の統治にあたったという状況が、大和朝廷の草創期でした。
大和の天皇家はここで、吉備氏族の播磨の稲日姫(いなびひめ)と通婚して、結束を固めようとしました。
そのいきさつについて、『播磨国風土記』からも情報を得ることができます。
2人のロマンあふれる出会いが綴られているのでした!
古代のそれぞれの古典は、根幹のストーリーは一致しています。
中央と地方の視点による見解の相違、細部の矛盾などはありますが、そこにこそむしろ語り伝えられた古典の真実味が感じられます。
各地の伝承は『古事記』『日本書紀』の情報を補うものでこそあって、決して否定するものでないのです。
日本武尊の父の景行天皇と、母の播磨の稲日姫の「妻問い(つまど)い」のモチーフは、後代の『源氏物語』の光源氏の物語にまで流れていくようです。
つづく