神武天皇の活躍年代はいつ頃?

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こんにちは!yurinです。

今日は、神武天皇の活躍年代はいつ頃なのか?考えてみます。

神武天皇の活躍年代は3世紀末

『日本書紀』の年代を、そのまま素直に読んだら、神武天皇の即位は紀元2600、縄文時代です(大汗)

最近は弥生時代が早まっているので、弥生時代の前期ともいえるでしょうか。

いくらなんでもその年代に入りきれない、というのが大きなハードルになっていらっしゃる方もいるでしょう。

 

そこに画期的な示唆を与えたのが、古代史学者の安本美典先生の「統計学的年代論」でした!

簡単にいえば、古代の天皇の「平均在位年数は約10年」ということです。

そして時代が下るにつれて在位年数は少しずつ長くなります。

 

私たちは、昭和天皇のご在位63年のイメージが強すぎるようです。

古代においては、どんなに長生きした天皇がいたとしても、実際にご在位されたのは、平均すると10年ほどということになります。

確かに政権が安定してきた奈良時代をみても、天皇が在位した年数は10年ほどです。

さらに当初の天皇の在位年数は10年未満かもしれない、という状況です。

 

たとえば「794(鳴くよ)うぐいす平安京」の第50代桓武天皇が即位されたのが、天応元年の781年。

「710(納豆)食べて平城京」の第43代元明天皇が即位されたのが、慶雲4年の707年です。

(781-707)÷(50-43)=10.57…

つまり、奈良時代の天皇も10年ほどの在位年数です。

 

政権の座に居続けるのは厳しいですね。

どの天皇も、人生のラストの10年に、三種の神器を継承し天皇に在位されるようです。

あるいは長く在位される天皇がいる一方で、わずか数年で退位される天皇もいらっしゃいました。

古代史学者の安本先生の「統計学的年代論」によれば、神武天皇の活躍年代は、西暦280年前後の3世紀末となります。

奈良時代にみる複雑な世代と皇位継承

『古事記』『日本書紀』をみると、古代は父子継承になっている天皇が多いので、実在が信じられない、という論もでてきます。

しかし天皇の世代数と父子継承は、そもそも別問題です。

 

これについて安本先生は

「本来、兄弟、叔父甥などの関係もあったものが、伝承の過程で、父子にしてしまったものもあったろう。」

とされています。

それについて奈良時代の天皇の継承をみても納得します。

古代の天皇は一夫多妻で、年をとっても皇子皇女が生まれるからです。

 

たとえば第40代天武天皇から5代目の子孫、第48代称徳天皇で、天武天皇系の血筋が絶えてしまいます。

今度は第38代天智天皇にさかのぼります。

そして天智天皇の皇子の志貴皇子(しきのみこ)の第6子の白壁王が、第49代光仁天皇として即位することになりました。

その皇子が第50代桓武天皇です。

 

天智天皇と天武天皇は兄弟なのですが、わずか100年ほどの間に、複雑な世代間の皇位継承がなされているのです。

 

若くして、幼子をのこしたまま即位できずに、亡くなってしまう皇太子もいました。

幼子が成長するまで、女帝も即位します。古代の皇位継承の複雑さが偲ばれます。

そうした中で、天皇家の血筋をひいて、三種の神器を継承した天皇の代数は、おおむね『古事記』『日本書紀』の通りでよいと考えられます。

 

安本先生の「統計学的年代論」による古代天皇の活躍年代の推定は、画期的な発見です!

歴史作家の河村哲夫先生は「ノーベル賞級の画期的な功績」と賛辞を贈られていました。

福岡県太宰府市の九州国立博物館「全国邪馬台国連絡協議会 第1回九州地区大会『筑紫の国の女王たち』」の講演会のときのことです。


左:安本先生 右:河村先生

この講演会では、安本先生、河村先生とともに、私も「斉明天皇と筑紫の女神たち」の講演をさせていただきました。

自分の講演を終えて、河村先生のご講演を伺う中で、実に感動的な思いがしました(大拍手)

常々、全く同じ思いだったからです。

 

安本先生の「統計学的年代論」は、「ノーベル賞級」のものと確信します。

太宰府という地での講演会ということで、心に深く刻まれています。

安本先生の数々のご著作を、ご興味のある方は、講演会録が掲載された『季刊邪馬台国126号』をお読みくださいね。

九州国立博物館講演会ポスター
 
『季刊邪馬台国126号』の1ページ

邪馬台国の東遷~神武天皇は天照大神の時代のあと

安本先生の年代論では、神武天皇は280年頃の人物、そこから5代さかのぼる天照大神は、まさしく卑弥呼の時代と重なります。

……それならばいっそのこと卑弥呼=天照大神で同一人物と考えた方が、数々の事象を矛盾なく説明できる、とお考えになったのです。

 

神武天皇の東征も、饒速日命の東征も、北部九州の「邪馬台国」の東遷と考えます。

日本列島を見据えて、掌握するためには、列島の中央に遷都することは必然です。

 

神武天皇については、第二次大戦後に、実にさまざまな神武天皇像が提出されています。

また実在するとしても、その年代も、邪馬台国時代の前にもっていく論などもあります。

 

古典に記された年代は、再考しなくてはならないと考えますが、その他のできごと、ストーリーの本質は、『古事記』『日本書紀』の記述を素直に読んでOK!と考えています。

 

どの古典も神武天皇の東遷は、天照大神の時代の後、と記されています。

古典を尊重する立場から、『魏志倭人伝』の邪馬台国の時代の後に、神武天皇の東遷が行われたと考えます。

 

一方で、邪馬台国畿内説の方々にありがちなのですが、卑弥呼の時代の前に神武天皇の東征を持ってくる考えをお見受けします。

この問題点は、日本古典との矛盾です。

どの古典にも記されているのは、神武天皇の時代の以前に、天照大神の時代があることです。

神武天皇以後の女帝は、第33代推古天皇までありません。

 

さらに『古事記』『日本書紀』の神功皇后の三韓征伐の記事に対応するものとして、高句麗の「好太王(こうたいおう)の碑文」があります。

4世紀末から5世紀末の倭国の進出を記す内容と関係しているとみられます。

これは『古事記』『日本書紀』の第14代仲哀天皇の皇后の、神功皇后の事績と関連するとみられます。

 

神武天皇の東征を卑弥呼の時代の前にもっていくと、神武天皇と神功皇后時代と200年の開きがでてきてしまいます。

『古事記』『日本書紀』のストーリーから外れて、説明も矛盾が大きくなるようです。

天照大神 → 神武天皇 → 神功皇后

という古典の根幹を素直に受け入れたいと考えています。

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