こんにちは!yurinです。
筑紫の島、すなわち九州地方の勢力を結集した神武天皇は、いよいよ畿内大和へ遷都します。
筑紫の島を離れるのは、神武天皇にとって相当な覚悟をもっての旅立ちでした。
その思いを込めてモニュメントというべき配石を築き、神々に捧げて大願成就を祈願します。
海軍力を駆使した大胆な遷都、磐境(いわさか)や土器の祭祀など、『古事記』『日本書紀』を丹念に読むと、弥生時代にも連綿と継承される縄文の精神を感じます。
目次
縄文と弥生に連続する海洋民族の伝統
『古事記』『日本書紀』の神武天皇の記事を読んでいると、弥生時代の農耕精神や弥生渡来系文物では、どうしても説明できないことがでてきます。
水稲農耕に従事し、農耕にまつわる神々をお祭りする弥生人が、これほど大胆に遷都できるものかしら?
船に乗るのに慣れない私は、陸地から離れて海上で大波に揺れると、恐怖感に襲われます。
現在の大型船と違いますから、たちどころに船酔いする人もいるのではないでしょうか?
そして大船団を組む航海技術・造船技術は、一朝一夕にできるものではありません。
神武天皇は母の玉依姫(たまよりひめ)、祖母の豊玉姫(とよたまひめ)は、海神(わたつみ)の娘です。
神武天皇は、母方の「海神(わたつみ)」を、誇りにしています。
海洋民族の伝統は、縄文時代にさかのぼる、日本人のアイデンティティです。
これについては以前ブログで書きましたので、合わせてお読みください。
神武天皇は宮崎市を出立し、宮崎県日向市美美津(みみつ)に大船団を集結し、出港したとされます。
早朝の美美津の海
今も神武天皇の出航にちなむ「おきよ祭り」があります。
潮の流れから出航が早まり早朝となり、「起きよ!」「起きよ!」と号令が駆け巡ったそうです。
急ごしらえのお船出のお祝いの団子を作り、人々はお見送りしたのでした。
また『古事記』『日本書紀』の神武天皇の足跡をたどり、由緒地を訪れると、「たていわ」の地名に出会います。
宮崎県日向市美美津(みみつ)の立磐(たていわ)神社は、神武天皇の船団が出航した地です。
「立岩(たていわ)」という巨岩の磐座(いわくら)が現れます!
福岡県飯塚市熊野神社の「たていわ」は神武天皇ゆかりの磐座(いわくら)として、ブログでも書きましたので、合わせてお読みいただければうれしく思います。
「たていわ」といえば、縄文遺跡にある列石のことではなかったかしら?神武天皇ゆかりの地に、どうして縄文的な名称が残っているのかしら?と、不思議な思いでした。
そしてついに北九州市黒崎の一宮神社で、神武天皇が築いたという配石遺跡を目にすることができました。
驚くべきことです!
筑紫の岡田の宮で船団と兵力を整える
『日本書紀』神武天皇即位前の記事です。
11月9日、天皇(すめらみこと)、筑紫の国、岡の水門(みなと)に至りたまう
『古事記』には、
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)
(略)日向(ひむか)より発(た)ちて、筑紫に幸行(いで)ましき。
かれ、豊国(とよくに)の宇沙(うさ)に至り
(略)其地(そこ)より遷移(うつ)りまして、筑紫の岡田宮に一年(ひととせ)坐(ま)しき。
(カムヤマトイワレビコノミコト、後の神武天皇は……宮崎付近を出立して、筑紫にお遷(うつ)りになられた。
そして大分県の宇佐に到着した……そこからさらに遷って、筑紫の国(福岡県)の岡田宮で、一年を過ごされた)
とあります。
そして神武天皇は、「舟師(ふねいくさ)=船団」を率いていたことが、『日本書紀』にあります。
南九州を旅だった神武天皇は、大分県の宇佐を経由して、筑紫の国の「岡田宮」に到着しました。
岡田宮
そこで1年を過ごしたとあります。
岡田宮については、福岡県北九州市黒崎の岡田宮、あるいは同じく黒崎の一宮神社が由緒地と伝えられます。
遠賀川の河口近く、遠賀郡芦屋町の岡湊(おかみなと)神社にも「神武社」があります。
遠賀川流域の伝承をたどると、神武天皇は、滞在した1年の間に軍船と兵力を整え、神々をお祭りしたようです。
北九州市とその周辺地域では、鉄のヤリガンナの出土が顕著です。
造船に使われたものと考えられています。
筑紫の山河に神々を祭りモニュメントを築く
筑紫の国の伝承から、神武天皇は、筑紫の国の東部を丹念に巡行し、神々をお祭りする様子がうかがわれます。
筑紫の国を象徴する山河に、神武天皇の先祖の天照大神の一族が祭られています。
もともとお祭りされていたところに、神武天皇は丁寧に祭祀を重ねたものとみられます。
そうして筑紫の人々の人心をつかんだのでしょう。
遠賀川は英彦(ひこ)山・馬見山(うまみ)に源を発し、日本海の響灘(ひびきなだ)に流れていきますが、古代においては、下流で瀬戸内海方面の周防灘へも分流していました。
遠賀川の2つの河口付近それぞれに、神武天皇の由緒地があります。
どちらにも滞在し、その由緒を地元でも大切にしてきたものとみられます。
一宮神社の配石遺跡の磐座(いわくら)は、神武天皇がまだ即位する前に築いたものなので「王子本宮」としてお祭りしています。
飯塚市熊野神社のような巨岩で築かれたのでなく、周辺にある小さな河原石を集積して、築かれています。
「神武天皇は実在しない」というスタンスであれば「古くからあった神社の祭祀遺構を、神武天皇に託したもの」とか、あるいは、「神武天皇にこじつけて、後世に築いた遺構」という説明で、納得してしまうのかもしれません。
当初はさすがに私も半信半疑な気持ちもありました。
どうしてこのような配石遺跡を築いたのか?弥生人の神武天皇が、本当にこのような磐座(いわくら)を築いたのでしょうか?
……ですが、こちらは、神武天皇をはじめ『古事記』『日本書紀』の初期天皇の時代の皇族の方々の「実在」を仮定して、文献考証を進めてきています。
……もしかしたら神武天皇は、縄文の精神を継承するお方であるのかもしれない……
そう考えると、船団を組んでの大胆な遷都や「たていわ」にも、縄文の精神がつながってきます。
黒崎の一宮神社の縄文的な配石遺跡は、やはり神武天皇が(あるいはその指導のもとに)築いたものと、素直に考えるべきと思いました^^
神武天皇と筑紫邪馬台国については、『季刊邪馬台国』134号に書きましたので、ご興味のある方は、合わせてお読みいただければと思います。
物部氏と尾張氏の系譜(5)神武天皇か、物部氏祖宇摩志麻治命か