こんにちは!オオクです。
今回は、群馬県藤岡市で今注目の古墳、伝説や規格なども興味深い七輿山(ななこしやま)古墳について紹介します。
令和2年11月6日、藤岡市は2018年に群馬県立博物館や早稲田大学と合同で地下レーダー探査とデジタル3次元測量を用いて実施された調査の正式な学術報告を発表しました。
調査では、これまで145メートルとされていた墳丘全長が150メートル超で、三段築成。
後円部に横穴式石室が確認され、その他、後円部の東側の内堀と外堀の間の中堤で造出を確認したそうです。
同時期の古墳では、真の継体天皇陵の可能性が高いとされる「今城塚古墳」の190メートル、愛知県熱田神宮近くの「断夫山古墳」の151メートルに並ぶ150メートル超で、断夫山古墳とは、同じ設計で作ったかもしれないほど形状も相似とのことです。
目次
藤岡歴史館から七輿山(ななこしやま)古墳を目指す
七輿山古墳は、5世紀前半から6世紀後半にかけて築造された「白石古墳群」のひとつです。
古墳群は「毛野白石丘陵公園」となっており、中間地点位には出土品などが展示されている「藤岡歴史館」があります。
2018年に群馬県主催で投票による「群馬HANI-1グランプリ」が開催され、第1位に輝いた「笑う埴輪」はここで会えます。
癒されキャラです。(笑)
藤岡歴史館で車をおいて、古墳群の中で最初に築かれた白石稲荷山古墳から歩いて皇子塚古墳へ。
皇子塚古墳の隣には、昨年、山崎まさよしさん主演の映画「影踏み」のロケ地になった平井地区1号墳があります。
そこから七輿山古墳に向かいます。
近くの宗永寺というお寺には舟形石棺。
美しい模様積みの石室で全国の古墳FANに人気の伊勢塚古墳までの古墳群めぐりは、日本のふるさとの原風景とともにいろいろなタイプの古墳が楽しめるお気に入りのお散歩コースです。
七輿山古墳の近くには、「七輿山ドライブイン」もあり、昭和レトロ感満載の自動販売機があり、他県の方々からも知られて人気です。
ここで水分補給や軽食でひとやすみできます。
また、七輿山古墳は古墳全体を桜が覆い、群馬の桜の名所として、シーズンには家族連れで賑わいます。
七輿山(ななこしやま)古墳の名前の由来は?
では、七輿山古墳について、まずはその名前の伝承から。
群馬県藤岡市のホームページには次のように説明されています。
七輿山の伝説
七輿山の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を賜った羊太夫は、八束の小脛という神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。ある日、羊太夫は、悪ふざけで昼寝をしている小脛の陵脇に1本づつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷へ日参できなくなりました。
朝廷は羊太夫が謀反を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が落合という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それそれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」という名称が伝えられています。
この地に伝わる古墳の名前の由来である「羊太夫(ひつじだゆう)」のお話は奈良時代のことであり、実際の築造年代とはかなり違っています。
6世紀の古墳で東日本最大級
続いて、古墳の概要を紹介します。
群馬県藤岡市の七輿山古墳は、鏑川と鮎川により形成された舌状の河岸段丘に作られた6世紀前半の大型前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級のもので、墳長150M、後円部径85m、前方部と後円部の高さは16mの大きさです。
複数回にわたる試堀確認調査の結果、濠が二重に巡ること(二重周濠)や、円筒埴輪のほか、多数の形象埴輪が存在していたことなどが明らかになりました。
また、平成30年(2018)におこなわれたレーザー探査によって、後円部に横穴式石室を持つことも判明しました。出土した円筒埴輪は径40㎝、高さ1mを越す7条突帯の大型のもので、古墳の墳形や規模、横穴式石室などもあわせて、当時の中心地である畿内との関係が強く表れている古墳です。
藤岡歴史館 説明パネルより引用
6世紀前半の築造で、その年代では東日本最大!
全国的にも稀な七条の突帯の大型の円筒埴輪、継体天皇の妃となった目子媛(めのこひめ)の父である尾張連草香のお墓との説もある断夫山古墳とは、形状も大きさも同じくらい。
となると、七輿山古墳の被葬者は?と、がぜん興味がわきます。
七輿山(ななこしやま)古墳の被葬者は?
七輿山古墳に眠る人物を特定するとはできませんが、「上毛野小熊(かみつけのおぐま)」の説があるようです。
小熊は、崇神天皇の息子・豊城入彦命(垂仁天皇の母のちがう兄)を始祖とする上毛野氏で、「上毛野氏」として『日本書紀』に名を記した最初の人物です。
『日本書紀』の安閑天皇元年に小熊の名前が登場する武蔵国造の乱の記載があります。
武蔵国造の乱
笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪だったため、密かに上毛野君小熊(かみつけのきみおぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。
小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上がり朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・倉樔の4か所を朝廷に屯倉として献上したという。
Wikipedia より抜粋
武蔵国造の乱の後、安閑天皇時代に現在の藤岡市にあたる緑野(みどの)に屯倉がおかれたと、『日本書紀』に記述があります。
この地に、屯倉がおかれた理由については武蔵国造の乱で小杵が殺され、その小杵に小熊が加担したことから、この乱との関係を指摘する説があります。
『日本書紀』には、小熊に助けをもとめたとはありますが、実際に小熊が助けに応じたことはあきらかでないので、屯倉をこの地に設けたのは武蔵国造の乱とは関係がなかったのではないかという見方もあるようです。
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