こんにちは!yurinです。
4500首以上の歌を集めた『万葉集』ですが、その歌が詠まれた状況を説明した序文がある場合があります。
歌の前に置かれたものを「醍詞(だいし)」といい、歌の終わりに追加された説明文を「左注」といいます。
今回新元号「令和」は、梅花の宴で詠まれた32首の歌の醍詞にあります。(第5巻 815~846 追加4首あり 849~852)
目次
序文を書いたのは山上憶良説
序文を書いた人物として山上憶良という説があります。
梅花の歌32首 序を合わせたり 天平2年正月13日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いえ)に集まりて宴会を開きき
(730年、1月13日(旧暦、今の2月頃)、大宰府の長官である大伴旅人(665~731年、当時65才)の邸宅に集まり宴会を催した)
時に、初春の令月にして、気淑(よ)く和(やわ)らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は佩後(はいご)の香を薫(かお)らす
(おりしも初春のよき正月で、大気は清く澄み渡り風は和らいでいる。梅は貴婦人の鏡の前の白粉(おしろい)のように白く咲き、蘭は身に着けたお香のようにかぐわしい)
なんとも美しく品格ある流麗な文章です。漢文の素養も感じさせます。
この序文については万葉の代表的歌人の一人で、筑前国守であった山上憶良(やまのうえのおくら、660~733年?)の説があります。
山上憶良は、遣唐使として唐へ渡り、仏教や儒教などの学問を学び、帰国して筑前国守に任じられました。
大宰府に赴任した大伴旅人との交流が始まったのです。
大伴氏は天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に供奉して以来、子孫は神武天皇の東遷、日本武尊の東国遠征にも供奉し、近衛兵として朝廷を守護してきた武門の家柄です。
それだけでなく神武天皇の東遷の時にみられるように、「歌」によって政治を支えてきたともいえる文武両道の家柄です。
大陸の最新文化を摂取してきた山上憶良と、文武両道の名門大伴旅人の交流は都を離れた地での「筑紫歌壇の形成」といえるほど、地方文化の高揚をもたらしたのです。
大伴旅人だけでは多くの作歌へのモチベーションは決して高まらなかったでしょう。
お互いに打てば響くように合い呼応して、周囲を引き入れて次々と歌を詠んだと思われます。
家族への思いや社会の矛盾などもつきつめて歌にする憶良に対して、そんなに一人で苦しまないでひととき宴を楽しもう、という長官としての励ましもあったように思います。
梅花の宴で詠まれた和歌~梅の花と雪~
梅歌の宴32首からいくつか拾ってみます。
歌の前の番号は、4500首余りの万葉歌の便宜上つけられた通し番号です。
梅を愛した日本人ならではの独特な感性が伺われます。
春さればまず咲く宿の梅の花 ひとり見つつや春日暮さむ 筑前山上大夫
5-818
(春になると真っ先にこの家の梅の花を、たった一人で見ながら、日の長くなった春の日を暮らすのでしょうか。実に羨ましいことです)
やはり山上憶良の歌は、万葉人の梅の花への思いを表して秀逸です。
梅の花は春に真っ先に咲き、春の訪れを告げる花。
そんな梅の花の庭園を持つ長官、旅人への賛辞も忘れません。
この歌が詠まれたのは旧暦の正月ですが(新暦の2月頃)、今でも早咲きはお正月に開く梅の花があり新年の喜びを感じさせます。
正月(むつき)立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しきを終(お)えめ 大弐紀卿(だいにのききょう)
5-815
(正月になり春が来たのだから、このように梅を迎えて楽しさの限りを尽くしましょう)
わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 主人(大伴旅人)
5-822
(わが家の庭園に梅の花が散っている。もしかしたら大空から舞い降りた雪が流れてくるのでしょうか)
落花する梅の花びらを「天より雪の流れ来る」とたとえた旅人の和歌はロマンティックで、芸術性豊かな表現にあふれ、次代の『古今集』への先駆のようでもあります。
そして「梅と雪」は大きな観照テーマです。
梅と雪
梅が開花してからも極寒の寒い日は続きます。
梅花の時節は思いがけない寒波が到来し、雪景色と梅花が重なることもしばしばです。
その梅と雪景色の風情を愛でたのも万葉人の心でした。
梅の花 散らくはいづく しかすがに この基(き)の山に 雪は降りつつ 大監伴氏百代
5-823
(梅の花が散っているのはどこでしょう。一方でその梅の花の散る庭から、基(き)の山には雪が降りしきっている)
残りたる 雪にまじれる 梅の花 早くな散りそ 雪は消(け)ぬとも
5-849(追加5首)
(残雪に混じって咲いている梅の花よ。どうか早く散らないでおくれ、たとえ雪が消えてしまっても)
梅花の宴で詠まれた和歌~梅の花と鶯(うぐいす)~
また「梅の花と鶯(うぐいす)」という取り合わせを愛でたのも万葉人の自然観照です。
梅の花 散らまく惜しみ わが園の 竹の林に 鶯(うぐいす)鳴くも 小野阿氏奥島
5-824
(梅の花が散ることを惜しんで、わが庭園の竹林にウグイスが鳴いている)
春されば 木末(こぬれ)隠れて 鶯(うぐいす)ぞ 鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しずえ)に 小典山氏若麻呂
5-827
(春になると、木の枝先にかくれてウグイスが鳴いていく。梅の下枝に)
春の野に 鳴くや鶯 なつけむと わが家の園に 梅が花咲く 笄師志大道
5-837
(春の野に鳴くウグイスをなつかせようとして、この家の庭園に梅の花が咲くこと)
わが宿の 梅の下枝(しずえ)に 遊びつつ 鶯(うぐいす)鳴くも 散らまく惜しみ 薩摩目高氏海人
5-842
32首のうち「梅と鶯」を読んだ歌が6首あります。
今では梅の花が咲くときにウグイスまで見ることができるのは、首都圏の家屋の庭園ではよほど困難です
なんともぜいたくな梅の花の鑑賞ができた万葉人が羨ましくなりませんか^^?
梅花の宴で詠まれた和歌~梅の花と髪飾り~
さらに万葉人の優雅さは、梅の花や柳の枝を髪飾りにして楽しんだ様子も知られます。
梅の花 咲きたる園の 青柳は 蘰(かずら)にすべく 成りにけらずや 小弐粟田大夫
5-817
(梅の花が咲いているこの庭園の柳は、新緑が芽吹いて、髪飾りにちょうどよいではないか)
梅の花 今盛りなり 思うどち 挿頭(かざし)にしてな 今盛りなり 筑後守大夫
5-820
(梅の花が真っ盛り。心ある人たちはその花を髪飾りにしてさしましょう)
青柳(あおやなぎ) 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし 笠沙彌
5-821
(青柳と梅の花とを折って髪飾りにして、楽しくお酒を飲んだ後は、散ってもいいですよ。どうかそれまでは散らないでくださいね)
梅の花 折り挿頭(かざ)しつつ 諸人(もろひと)の 遊ぶを見れば 都しぞ思う 土師氏御道
5-843
同じように梅の花を髪飾りに遊んだ遠い都での日々を思い出して、懐かしんでいる歌もあります。
このように梅の花や芽吹いた青柳を髪飾りにして挿して、歌い舞い酒宴を楽しんだのでしょう。
「梅の花」と「青柳」の彩りが浮かぶ歌は4首、「梅の花の髪飾り」は10首あります。
長い新緑の柳の枝をなびかせて、手折った梅を髪に挿して楽しむ万葉人たち。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」の言葉通り、梅の枝は折っても再生することも知っていたのでした。
『日本書紀』で第12代景行天皇が西国に遠征し、現在の西都原古墳のある西都市付近で読んだ「倭(やまと)は 国のまほろば」の歌群の中にも「髪飾り」の歌があります。
命(いのち)の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 白橿(しらかし)が枝を 髻華(うず)に挿せ この子
(元気に無事に故郷へ帰った者は、神聖な平群の山の白樫の枝を髪飾りにして、心いっぱい遊びなさいよ)
酒宴やお祭りの時に、山野の草木を髪飾りにして楽しんだ様子が伺われます。
娯楽の少ない古代において、本当に楽しく生を感じる瞬間だったのではないでしょうか。
寒い冬のあたり一面の茶色の世界に、いち早く春の訪れを告げる梅の花の彩りを見る喜び。
時代は下り万葉時代には、庭園を作り梅の花を愛でる宴も開かれるようになったのでした。
大宰府長官の大伴旅人と筑前国守の山上憶良
大宰府天満宮
趣向をこらして春の訪れを寿ぐ大宰府の長官宅に集まった人々。
筑前国守の山上憶良を始め、遣隋使で名高い小野妹子と関係するとみられる小野氏族も3名みられます。
筑後守(ちくごのかみ)、豊後守(ぶんごのかみ)、壱岐守(いきのかみ)、対馬氏……など北部九州の有力貴族たちの集いであったことがわかります。
海外の王朝と比較すると、日本の朝廷はとても質素で心が豊かだと思いませんか。
物資的豊かさよりも心の豊かさを大切にしてきたようです。
庭園に咲く一本の梅のフォトが、すぐに出てこなかったので(大汗)恐縮ですが、山里に咲く一枝の梅を愛でる心が、本来のものであったと思います。
それもこれも日本の風土には四季おりおりの豊かな自然があったからこそでしょう。
列島中央部を南北に走る山脈から無数の河川が流れ出し海に注ぐ、水の豊かな国でもあります。
その地理的恩恵と四季の自然の豊かさを享受してきたのです。
今回の新元号「令和」、わが国の誇るべき古典『万葉集』を典拠にしてなった新元号を心から祝福したいと思います。