こんにちは!yurinです。
神武天皇が大和に入る前に、饒速日尊(にぎはやひのみこと)が畿内へ東征していました。
饒速日尊は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と兄弟
『先代旧事本紀』によれば、高天の原の天照大神と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は饒速日尊(にぎはやひのみこと)に命令を下します。
それを受けて饒速日尊は、三十二の神々、物部二十五部とともに、葦原中国(あしはらのなかつくに、本州)に降臨します。
安本先生は「邪馬台国の東遷ではないか」と述べています。
九州方面から、畿内方面へ、邪馬台国勢力の本体、あるいは一部が東征したとみられます。
東征か?東遷か?もまた議論されるところです。
東征は、帰還することを前提に遠征することで、東遷は帰還の予定はなく、居を移すことです。
古代史学者の安本先生は
「古代のことなので、東征といっても、
帰還の可能性は少ない。 ですから東征でも、東遷でもそれほど差はないようです。
神武天皇の場合は、東遷といえるほどの、本体や支配者層の移動であったとみられます。」
とおっしゃっています。
饒速日尊は、畿内の淀川水系と大和川水系を掌握したようです。
大阪府交野市の磐船(いわふね)神社、南河内郡河南町の磐船大(いわふねだい)神社に祭られています。
天孫族の古い信仰を彷彿とさせる山上の巨岩が驚異の神社です。
磐船神社の巨岩
『先代旧事本紀』によれば、饒速日尊は、
『古事記』では、はっきりと結びつけていなのですが、そのように読み取れる系譜も、確かにあります。
『日本書紀』の一書にもあります。
饒速日尊(にぎはやひのみこと)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と兄弟、すなわち「天孫」であることは、北部九州の筑紫の国の神祭りの様相からも支持されます。
筑紫の国(福岡県を中心とする地域)には、主要な山河とともに天照大神から神武天皇までの一族、「天孫」をお祭りしている様相が顕著です(『季刊邪馬台国129号「筑紫の自然と神々」』)
その中には、当然祭られてもしかるべきところに、出雲と関わりが深い、大国主命(おおくにぬしのみこと)が見えなかったりします。
伊奘諾尊(いざなきのみこと)とともに、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、祭られていなかったりすることもあります。
そうした中で、饒速日尊は、筑紫の主要な山である笠置山に、「火明神(ほのあかりのかみ)の名で、馬見山(うまみさん)にお祭りされています。
饒速日尊は、『先代旧事本紀』で正式名称を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(
その長い名称(大汗)の中で、「火明(ほのあかり)」
笠置山の麓には天照神社もあり、地元の人々の信仰も厚いです。
天照大神の一族だからこそとみられるのです。
「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)」の名称も、天照大神の一族なので、尊称されたのでしょう。
そのような筑紫の山河の神々を祭る様相から、饒速日尊は「天孫」として考えるのが適切とみられます。
天照大神と全く関係ない系譜の神々が、筑紫の主要な山河に祭られることはないからです。
順調だった饒速日尊の東征
饒速日尊は、血筋もよく、人望もあったとみられます。
「邪馬台国の東遷」といえるほどの大部隊を率いて東征したのでした。
畿内大和では、首尾よく地元の有力豪族とも融和して、長髄彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妻として生まれたのが宇摩志麻治命(うましまちのみこと)でした。
饒速日尊は、神武天皇が統治する南九州までを掌握していなかったので、倭国の王にまではなれていませんでしたが、順調にことは進んだようです。
安定した饒速日尊の政権、あるいは王朝となって続く可能性もありました。
……ところが、饒速日尊は、不安定な政権と宇摩志麻治命(うましまちのみこと)を残して亡くなってしまったのです。
残された人々の中には、長髄彦に頼る宇摩志麻治命(うましまちのみこと)にはついていけない、と脱落する人々がでてきてしまったようです。
一方で、むしろ人々から待望されたのが、天照大神の血筋をひく、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひびこのみこと)、後の神武天皇でした。
神武天皇が、南九州から東征する準備期間を考慮すると、饒速日尊の生前中に、長髄彦の血筋をひく宇摩志麻治命の先行きを案じて、動き出していた人々がいたようにみられます。
そして、饒速日尊の死によって混乱していくことになるのです。