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武蔵国造の乱の後、現在の群馬県藤岡市にあたる緑野(みどの)に屯倉がおかれたと、『日本書紀』に記述があります。
その屯倉と同じ名前の緑野寺(みどのでら)という寺院が古代この地にありました。
目次
鑑真の高弟 道忠(どうちゅう)が創建し最澄が巡教した寺
緑野寺(みどのでら)は、あの鑑真の高弟の道忠(どうちゅう)が建立したといわれています。
後に、最澄が巡教し、東国の巡教は下野国と、ここ上野国の緑野寺(みどのでら)の2か所だけだったようです。
緑野寺は現在の浄法寺(藤岡市)になっています。
境内には、最澄の発願により建設された相輪橖(現在のものは1672年に改造されたもの)や、最澄の像があります。
最澄の像は実際に対面しますと、あまりの大きさにおどろきました。
浄法寺相輪橖
浄土院浄法寺は緑野寺とも呼ばれ、鑑真の弟子道忠の創建と伝える。
相輪橖は弘仁6年(815)伝教大師(最澄)の発願により建設された全国六か所宝塔のひとつ。全国六ケ所とは比叡山延暦寺北東塔、西塔の二か所と九州に二か所、関東の下野国大慈寺およびこの緑野寺であり、最澄存命中に完成したのは大慈寺と緑野寺の二か所であった。
現在のものは寛文12年(1672)に改造されたもので、青銅製、高さ5.3mである。
奈良時代初頭の大規模な古代寺院跡発見!
また、藤岡市には、土師(どし)神社があり、境内には日本三大辻のひとつがあります。
あとの二つは大阪の住吉神社、能登の羽咋神社にあるそうです。
その名の通り、古代ここには「土師部」が住んでおり、土師神社のそのすぐそばには、「本郷埴輪窯跡」があります。
この地域の土師部の人たちは、古墳が衰退すると、寺院建築の方にたずさわったのではないか、という見方もあるようです。
2018年、ここ藤岡市から奈良時代初頭の古代寺院跡「牛田廃寺(うしたはいじ)」が発見されました。
地元の新聞記事によりますと、複数の建物が集まる大規模寺院だった可能性があり、創建年代の特定につながる瓦が発見されたそうです。
神流川(かんながわ)の対岸、埼玉県神川町(ヤマトタケルの伝承がある町)には、藤岡市の浄法寺(緑野寺)と深いかかわりがある「伝・緑野寺旧跡」があります。
東国の仏教の普及に中心的な役割を果たした緑野寺は、現在の浄法寺と別の場所にあったとされているようです。
神川町の旧跡を緑野寺とする説が有力らしいのですが、詳しいことはわかっていないそうです。現在のところ、この牛田廃寺が「最有力候補」とみているようです。
古代寺院跡近くの「牛田古墳群・現地説明会」
先日(11月8日)、その牛田廃寺のすぐ近くにある川除屋敷裏遺跡(かわよけやしきうらいせき)の「牛田古墳群」の現地説明会があり参加してきました。
遺跡現地説明会の資料より抜粋
牛田古墳群
群馬県と埼玉県の県境を流れる神流川(かんながわ)の左岸低地の藤岡台地際に造られた古墳群で4基の円墳が確認されました。藤岡市には、約1500基の古墳が存在しますが、ほとんどが藤岡台地上に造られており、牛田古墳群のように低地につくられることはあまりなく、埴輪はまったく伴わず、古墳時代終末期(7世紀)に造られた古墳です。
石室は比較的良く残存しており、大きい石と小さい石を巧みに組み合わせ飛び石状の壁面を構築する「模様積石室」であることがわかりました。「模様積石室は、日本では藤岡市とその周辺の地域しか見られません。
今回の現地説明会では、石室があらわになって、加工せず自然の石を使った独特な「模様積」の石の積み方が良く分かり、大変感激しました。
古墳は牛田廃寺の発願者と何らかの関わりがある可能性が高いそうです。
古墳から寺院へ。
これからの調査が興味深い地域です。
そして、現地説明会を終え、歩いて帰る途中に前途で紹介した群馬HANI-1グランプリ1位を受賞した「笑う埴輪」の出土した場所の説明板を発見!なんと、「笑う埴輪ちゃん」も牛田地区出身でした。
プロフィールは、「牛田地区下毛田(しもだい)遺跡出土・6世紀」とありましたので、このあたりでは古株?(笑)
古墳、屯倉、仏教などの流れを知ることができる藤岡市は、群馬県の中でも古代において重要な地域であることを改めて実感しました。