Q&A 22/05/29神様勉強会-伊勢の神々とヤマトヒメ

古代史日和 勉強会

※この勉強会は終了しています

勉強会後にみなさんからいただいたご質問と、先生のご回答を公開しています。

質問①ほかの神社の伊勢神宮の木材使用について

Q ほかの神社で、時々誇らしげに「こちら(鳥居、梁、など)は、伊勢神宮の木材を使用した(下賜された)ものです。」との説明を聞くことがありますが、こういった謂わばSDGsは、昔から行われていたのでしょうか?また、下賜される神社というのは、その神社の社格に依って決まっているのでしょうか?

【えみ子先生より】

5/29伊勢の神々とヤマトヒメ勉強会にご参加いただき、ありがとうございました。質問に対する回答です。

伊勢神宮では20年に1度、社殿や装束神宝などを一新する式年遷宮が行われます。

古い社殿や解体後の部材などは日本全国の神社などへ撤下・譲渡され、木材の再利用・再々利用が行われています。

① 社殿など

例えば、皇大神宮(内宮)の宇治橋の鳥居は、内宮や外宮正殿の棟持柱を再利用して建てられています。

宇治橋として20年間再利用した後、東海道の関宿にある「関の追分」(三重県亀山市)と桑名宿にある「桑名の七里の渡し」(三重県桑名市)の鳥居として20年間再々利用されます。

桑名の七里の渡し鳥居

桑名の七里の渡し鳥居

*内宮・外宮の棟持柱20年→宇治橋鳥居20年→関の追分と七里の渡しの鳥居20年→各地の神社などへ撤下

阪神淡路大震災で石鳥居が崩壊した生田神社(兵庫県神戸市)の現在の鳥居は、この関の追分に立っていた鳥居が撤下されたものです。

解体された旧社殿の建物や部材(柱など)は全国の寺社へ譲渡され建物の修復などに使われています。
撤下・譲渡される場所や理由がどう決まるのかは定かではありませんが、前回の遷宮では神社本庁が取りまとめて全国の必要な箇所へ振り分けたと伝わっています。

② 神宝装束

式年遷宮で新たに奉献された装束神宝は20年間、正殿内に奉られた後、次の遷宮で撤下されます。
しかしながら内宮と外宮の両正宮の装束神宝に限っては新しくなった正宮の西宝殿に移され、さらに20年間保存された後の、次の遷宮時に撤下されます。

元来、装束神宝は神に奉じられた御料であるので人手にわたることは畏れ多いとされ、撤下の後はすべて焼却あるいは土中に埋められました。
明治中期以降は、神宝装束の仕様や調製技術の継承に資するため、大半が保存されています。 保存された神宝装束は神宮の博物館である神宮徴古館などで展示されたり、さらに各地の神社へ撤下されています。

質問②藤の花と鬼退治について

Q 鬼滅の刃のブームから、藤の花と鬼退治が気になってました。タケミナカタと守屋の対決も藤のつると金輪だったし。今日の籠神社の御朱印に藤の花があり、気になってます。
菊でも桜でもなきか、藤の花というのは何か言われがあるのでしょうか?

【えみ子先生より】

5/29伊勢の神々とヤマトヒメ勉強会にご参加いただき、ありがとうございました。

籠神社 葵大祭(例祭)と藤の花について
藤の花を飾る由来については、籠神社に確認されるのが最良と思います。

巷間には以下のような諸説が広まっていますが憶測の域をでません。

  • 豊受大神をはじめとしたご祭神が藤と由縁を持ち、奥宮・真名井神社の鎮座地が藤岡山(天香語山)であるなど、藤は籠神社と縁が深い。
  • 豊受大神の御顔が藤の花にたとえられる。
  • 藤は春の訪れを表す花ともいわれ、春の祭礼なので藤の花を飾るようになった。
籠神社境内と藤の花

籠神社境内と藤の花

籠神社ホームページや籠神社発行『元伊勢籠神社しおり』『ご由緒略記』では、4月に開催される葵大祭(例祭)について、以下のように記されています。

懿徳天皇4年(紀元前507年)に始まったと伝えられ、「藤祭」と称しておりました。欽明天皇の御代に賀茂祭が「葵祭」と称せられるに及んで、當社でも「葵祭」と称されるに至ったと伝えられています。
当神社ともゆかりの深い京都の賀茂社の葵祭では、祭員が冠に葵の葉を付けるのに対し、豊受大神ゆかりの藤の花を挿すのが古例となっております。

ホームページより引用

質問③外宮先祭(げくうせんさい)について

Q 外宮先祭(げくうせんさい)とは何ですか?

【えみ子先生より】

神宮の祭典は「外宮先祭」といって、まず外宮で祭儀が行われるならわしがあります。

トヨウケはアマテラスの御饌都神(食事神)なので、内宮の祭儀に先だって御饌都神に食事を奉るためと言われますが、いろいろな学説があります。

また祭典の順序にならい、参拝も外宮から内宮の順にお参りするのがならわしになっています。

なぜ外宮に先にお参りするのか、明確な理由はわかりませんが、地理的な条件が考えられます。昔は徒歩で伊勢国に入り、最初に通る順路に外宮があり、外宮を先に参拝するようにな
ったというものです。

質問④斎王の役割について

Q 斎王の具体的な役割について教えてください。

【えみ子先生より】

斎王は、天皇が即位すると天皇に代わって伊勢神宮に奉仕するために、皇族の未婚女性の中から選ばれ、伊勢に派遣されました。

第 10 代崇神天皇皇女のトヨスキイリヒメ、第 11 代垂仁天皇皇女のヤマトヒメなどが初期の斎王ではなかったかと言われますが、伝承的な記録が多く、実態はよくわかっていませ
ん。

実在した最古の斎王は、第 40 代天武天皇皇女の大来(おおく)皇女です。『万葉集』や飛鳥で出土した木簡などから 673 年に就任したと裏付けされています。

斎王の務めは年代によって内容や手順詳細など異なると思いますが、ここでは『延喜式』等に記載された平安時代の斎王のつとめをご紹介します。

*『延喜式』・・10 世紀前半に編纂された、律令の施行細則集

 

斎王が伊勢神宮に赴くのは、三節祭とよばれる伊勢神宮で最も重要な行事<6 月の月次祭、9 月の神嘗祭、12 月の月次祭>だけに限られていました。

斎王の住まいである斎宮から外宮まで直線で約 10km以上離れており、途中にある離宮院に 1 泊して外宮→内宮に向かいました。

『延喜式』には、斎宮を出発後に 2 か所で祭を行う、民に塩や米などの施しをする、度会川や五十鈴川での禊や、神宮での祭祀後は直会・舞を供し、神宮神官に録を授けるといった儀
式・しきたりなどが記録されています。

通常は居住している斎宮で祭や行事が行われていました。

朝廷で行われている祈念祭、新嘗祭、節会などの年中行事も朝廷同様に行われ、また神宮と関わる行事、正月の神宮遥拝、毎月朔日の忌火・庭火祭、晦日の解除(はらえ)、大殿祭、多気・度会の2つの神郡(神宮の支配を受ける郡)内の神社に幣帛(贈り物)を分配するなど数多く行事が行われたことがわかっています。

平安時代に書かれた『伊勢物語』第 69 段に、主人公(在原業平?)が狩りの使者として斎宮に行ったときの物語が語られています。

<斎王が主人公をもてなした。夜中に主人公の寝所に行った。互いに和歌を交わしたが、再び会うことはできなかった等>。

事実であったかはわかりませんが、斎宮の中で酒宴を設けたことや、盃の皿に和歌を書いてやりとりをしたなど、当時の斎宮生活がわかるような興味深い物語です。

絵馬斎王まつり

絵馬斎王まつり

質問⑤荒御魂について

Q 伊勢神宮では内宮も外宮も正宮があるのに、それとは別に荒御魂が立派な建物にまつられている。荒御魂とは何か?

【えみ子先生より】

神の御魂はいろいろな働きにより、「和御魂(にぎみたま)」と「荒御魂(あらみたま)」を持っているとされています。魂の二面性を表すもので、対をなしています。
■和御魂・・神の優しくおだやかな働き。恵みを与える。友愛の御魂
■荒御魂・・活動的で積極的な働き、進取的な御魂

□皇大神宮(内宮)

正宮:アマテラスの和御魂をまつる
荒祭宮(別宮):アテテラスの荒御魂をまつる

荒祭宮

荒祭宮

  • 荒祭宮は内宮第一の別宮
  • 殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさ
  • 祭事や供物も正宮に準じて行われる。
  • アマテラスに和妙(絹)と荒妙(麻)の反物などを奉じる神御衣祭(5 月/10 月)が行われるのは、内宮正宮と荒祭宮のみ。
□豊受大神宮(外宮)

正宮:トヨウケの和御魂をまつる
多賀宮(別宮):トヨウケの荒御魂をまつる

多賀宮

多賀宮

  • 多賀宮は外宮第一の別宮
  • 殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさ
  • 多賀宮は 98 段の石段を上がる、丘の上にご鎮座している。石段の下に遥拝所がある。
  • 祭事や供物も正宮に準じて行われる。
□伊勢神宮では、アマテラスの弟神であるツキヨミをまつる別宮でも分かれている

月読宮(内宮別宮):ツキヨミの和御魂をまつる
月読荒御魂宮(内宮別宮):ツキヨミの荒御魂をまつる

月読宮社号標

月読宮社号標

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