物部守屋を祭る二つの神社【2】諏訪信仰の聖地のつづきです。
目次
物部氏の母方の先祖の長髄彦(ながすねびこ)と洩矢(もれや)の神
『古事記』で、建御名方(たけみなかた)の神が、武雷槌神(たけみかづちのかみ)に追われて、諏訪の地へ逃れて、ここから出ないということで許された、とあります。
一方諏訪地方の伝承では、建御名方(たけみなかた)が諏訪入りしようとしたとき、すでに先住の洩矢ノ神(もれやのかみ)がいて、二神は戦ったと伝えます。
建御名方(たけみなかた)は藤の蔓、洩矢ノ神は鉄の輪をもっていた、と言います。
いち早く鉄を入手した先住氏族がいたことをうかがわせる伝承です。
ですが、藤の蔓をもっていた、建御名方(たけみなかた)の方が勝利して、大祝(おおほうり)となったのでした。
洩矢(もれや)の神は、建御名方(たけみなかた)に従い、「神長官(じんちょうかん)」として、実質に諏訪大社の祭祀をとりしきってきたといいます。
その洩矢ノ神とも同じ名称(もれや、もりや)をもつのが物部守屋です!
この謎は、本当にミステリアスで、これを解き明かしていくことに、かぎりなく面白さを感じます。
考えてみますと、物部氏の先祖は饒速日命(にぎはやひのみこと)ですが、その御子の宇摩志麻治命(うましまちのみこと)もまた、物部氏の祖として尊崇されてきました。
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、饒速日命が、大和の地元の豪族の長髄彦(ながすねびこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妻として生まれた子です。
ここから物部氏は始まります。
『先代旧事本紀』では、律令体制も確固として朝廷の威信も高まった平安時代の始まりに、天皇家の始祖の神武天皇の大和入りをはばんで、抵抗した長髄彦の妹を妻としたという、物部氏の先祖の伝承を記します。
そこまで記す物部氏の伝承にこそ真実味があります。
虚偽をわざわざ言い立てても、神武天皇に抵抗した一族の始まりを記しても、下手をしたら反逆罪に問われそうです。
当時の朝廷が『先代旧事本紀』を認めていたことがわかります。
建御名方神と長髄彦をつなぐ「とみ」
ここまで考えますと、御炊屋姫(みかしきやひめ)と長髄彦は何ものか?ということまでさかのぼって、考えたくなります。
出雲の大国主命の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)の子ではないかという説があります。
大和地方の開拓は、まず出雲系の人々によってなされたとみられるので、その先住の一族の娘を、饒速日命が妻として、生まれた子供に統治権を与えた、と考えるのは、もっとも自然で納得できるのです。
長髄彦(ながすねびこ)と御炊屋姫(みかしきやひめ)が出雲系とすると、かぎりなく諏訪や建御名方とも近くなります。
諏訪大社の祭神は『延喜式神名帳』に「南方刀美(みなかたとみ)」とあります。
「刀美(とみ)」は、『古事記』の「登美(とみ)の長髄彦」の「とみ」に通じます。
そういうことから、長髄彦=建御名方という説もあるほどです。
さすがに同一人物説はとりませんが、長髄彦は出雲系で、かぎりなく諏訪の系譜にも親近感があるようにみられるのです。
そのように物部氏の始まりに、出雲や諏訪の系譜がうかがわれるところです。
先祖の縁を頼って落ち延びる敗者たち
話しはかわりますが、大化の改新で、中大兄皇子に謀反の疑いをかけられた、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)は誅殺されました。
石川麻呂の一族は先祖の縁を便りに逃れてきたところが、長野市の川柳将軍塚古墳のある集落でした。
そこで暮らし始めた一族に因んで、集落は「石川村」となり、川柳将軍塚古墳の地名の由緒にもなっています。
蘇我氏は、物部氏の女性を妻とした第8代孝元天皇から出ています。
大彦命も蘇我氏も、物部氏の系譜の女性に始まっています。
こうしたことをみると、どんなに時代を経ても、先祖というのは重んじられて、いざというときには、それを頼って落ち延びることがあるということも理解されてくるのです。
物部守屋一族は、はるかに昔の先祖の縁によって諏訪地方に逃れた、とも考えられるのです。
諏訪信仰の聖地の守屋山上に守屋を祭る謎
それにしても、中央で物部氏が復活したのちも、守屋を追慕して、諏訪地方の片隅に残った一族もいたのでした。
そしてついに諏訪信仰の最大の聖地の守屋山山上に、守屋大連の霊を祭ったのです。
物部守屋神社
なんとも奥深さを感じさせる歴史です。
一族が住んだ「片倉」の地名も諏訪信仰の由緒を感じさせます。
その後、物部守屋の子孫から、神長官守矢氏の養子に入った、という説もあるほどです。
守屋神社境内の横を清流が流れおちて、絶え間ない水音がします。
社前のしだれ桜が咲く季節に訪れたら、どんなに美しいかなと思いました。
こうして守屋を追慕する人々は、社前を彩ることも忘れないのでした。
目がくらむような急坂の階段の奥に、簡素な社殿がありました。
何か都から持ってきた宝物もあったのでしょうか。
それとも寄進した宝物が納められているのものか、立派な倉があります。
さらに見上げる山上の奥宮までは、もう少しあります。
よくぞこのような場所に、物部守屋をお祭りしたもの、と感動します。
日本の神道祭祀に殉じた物部守屋。
諏訪信仰の歴史の1ページを刻んでいるのでした。
その守屋公を祭る後世の人々の姿から、日本武尊や大彦命を祭った人々の姿も重なってくるのでした……
筑紫の山々の山上に、神々を祭るのも、社殿のない時代の人々の思いをこめたものでしょう。
あるいは、社殿を築く財力のなかった人々は、せめて守屋公を山上に慰霊して、未来永劫に、この地の守護神であれ、と願ったのでしょう。
桜が咲き、春の芽吹きの美しい季節に、再び訪れたいと思いました。