日本で例が少ない高句麗式の古墳!能登の須曽蝦夷穴古墳

こんにちは!Kaoriです。

先日、石川県七尾市にある須曽蝦夷穴古墳を訪れました。 須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)と読みます。

目的地に向かう途中でたまたま見つけた古墳で、せっかくなので寄ってみたところ古墳探索している気分が味わえる場所でした。

須曽蝦夷穴古墳ってどんなところ?

須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)は、石川県七尾市街地から少し離れた、能登の豊かな自然の中にひっそりとたたずむ古墳です。

国の史跡にも指定されており、7世紀中ごろに造られたと考えられている横穴式石室を持つ方墳です。

一辺が20メートル程度、高さ約4.5メートルで、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている点が大きな特長です。

古墳内部構造と2つの石室

須曽蝦夷穴古墳の最大の魅力は、やはりその内部構造と、2つの石室にあります。 石室はそれぞれ長い羨道部(えんどうぶ/せんどうぶ)をもち、全長約7メートル前後に達します。

雄室と呼ばれる東側の石室は平面形がT字形、雌室と呼ばれる西側の石室は逆L字形に造られています。

※案内板

※拡大します(赤文字と矢印は古代史日和にて記載)

また石室用材には能登島に産出する安山岩室板石が使われています。

特に印象的だったのは、羨道部に使われている石が、まるで大きなブロックのように緻密に組み合わされている点です。 (よくできていますよね。素晴らしい技術)

私が訪れた日はくもりで、くもりや雨の日の石室はちょっと怖いですが、薄暗い空間に身を置くと、当時の人々がどのような思いでこの場所を造り故人を葬ったのか、想像が膨らみます。

高句麗式の古墳とは?

ところで、日本では珍しい高句麗式の構造とはどのような特徴を持つ古墳でしょうか?DISCOVER NOTOによると次の内容です。

高句麗式の構造の定義とは、石室が2つあること、横穴が石室の長辺に接続していること、石室の天井部は隅三角持送技法によりドーム状などです。

引用元:https://discover-noto.com/3118/

須曽蝦夷穴古墳に見られる「高句麗式」の構造

  • 石室が2基あること
  • 横穴が石室の長辺に接続していること
  • 石室の天井部が隅三角持送技法(すみさんかくもちおくりぎほう)によりドーム状になっていること

これらの特徴から、須曽蝦夷穴古墳は、単に能登で作られた古墳というだけでなく、古代の日本列島と朝鮮半島、特に高句麗との関係性を考えたくなります。

もしかしたら当時の能登が、大陸文化を取り入れる地域の一つだったのかもしれませんね。

須曽蝦夷穴古墳の被葬者は誰?

須曽蝦夷穴古墳に葬られている人物は、残念ながら現在まで特定されていません。

古墳時代後期、7世紀中ごろという築造時期は、ヤマト王権(大和朝廷)による律令国家の形成が進み、古墳の築造が次第に行われなくなる時代にあたります。

このような時期に、しかも高句麗式の特殊な構造を持つ方墳が能登の地に築かれたことは、被葬者が能登の有力者、あるいはヤマト王権(大和朝廷)と密接な関係を持ち、大陸文化にも通じていた人物であった可能性を示唆しているということでしょうか。

例えば、当時の能登の有力氏族で、朝鮮半島との交易や外交に関わっていた人物かもしれません。あるいは、渡来系の技術者やその子孫が関わっていた可能性も考えられます。

いずれにしても、その人物は当時の能登、ひいては日本海側における国際的な交流の象徴ともいえる存在だったように思えます。

なぜ「蝦夷穴」なのか?考えてみる

古墳の名前に「蝦夷」と付くのは、古代史ファンにとってはとても興味深いポイントです。

一般的に「蝦夷」は東北地方に住んでいた人々を指す言葉ですが、なぜ遠く離れた能登の古墳にその名が冠せられたのでしょうか。 

蝦夷と呼ばれる人々が実際にこの地に関わっていたという説があるのかな?と思って調べてみると、“えみし”ではなく”えぞ”と読むので、由来は「蝦夷穴」で考えた方良さそうでした。

蝦夷穴(えぞあな)は、崖の中腹にある横穴の呼び名で、東北地方南部から関東地方・中部地方に分布する。エゾ穴とも書く。実態は古墳時代から奈良時代にかけて作られた古墳の横穴式石室か横穴墓で、蝦夷が作ったものではない。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E7%A9%B4

蝦夷穴を名称にもつ古墳は、石川県の須曽蝦夷穴古墳のほかにも、福島県にもありました。

須曽蝦夷穴古墳は方墳ですが、福島県の蝦夷穴古墳は円墳なので形は関係なく横穴の部分を指しているようですね。

須曽蝦夷穴古墳から広がる歴史への想像

目的地の途中でたまたま見つけた古墳でしたが、日本では例が少ない古墳との出会いに大満足。 改めて歴史の奥深さに触れることができました。

ただ古墳を見るだけでなく、その背景にある人々の暮らしや、当時の社会、そして交易や交流の様子に思いを馳せる時間はとても豊かなものですよね。

能登半島の美しい自然の中で、古代の人々が築き上げた遺構に触れることができる須曽蝦夷穴古墳。

能登方面に行かれる際にはぜひ一度訪れてみてほしい場所です。 

古墳から見える七尾南湾も素晴らしいので、行かれた際には景色もあわせてお楽しみください。

※矢印のあたりが七尾南湾です

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