日本武尊が東征のときに休息した千葉県でのエピソードを教えていただきました。(kaori)
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東夷征伐の折のことです。
日本武尊は下総国は国府台(現在の千葉県市川市国府台)に休息のため陣を張りました。
東征軍は故あって急ぎ武蔵国に向かおうとしたのですが、国境には太日川(現在の江戸川)が流れています。
渡河のための舟もなく、川は広く、深浅があり迂闊に川に入ることも出来ずに尊は苦慮していました。
そんな折、コウノトリが飛来します。
コウノトリは川に入ると頻りに魚や川虫をついばんでいます。
この様子を暫くご覧になられていた尊の顔はやがて笑顔へと変わりました。
川の中を縦横に歩き回るコウノトリの様子から、向こう岸へ渡るための川の浅瀬の位置を掴むことが出来たのです。
尊は、喜びのあまり鳥に向かって「汝(な)に此山をいたす」と叫んだと伝わっています。
「お前にこの山(国府台)をくれるぞ」みたいな感じでしょうか?
是より後、勅を請けて鴻之鳥は国府台に棲むようになった。と伝承は結びます。
勿論、浅瀬を把握した尊は東征軍を率いて江戸川を渡り、全員無事に武蔵国へ入ることが出来たのでした。
時は過ぎ、そんな出来事も人々の脳裏から消えかけた1087年(寛治元年)2月8日国府神社が創建されました。
御祭神は勿論、日本武尊。そして御神体はコウノトリの嘴だということです。
出典『相州兵乱記』『国府台合戦記』『関八州古戦録』『葛西志』
追記
1.市川市教育委員会がリライトしたお話が有ります。
著作権も有るため転写しませんが、国府神社 市川市教育委員会で検索して頂ければ出てきます。
メルヘンチックで物語としての完成度は高いと思います。
2.市川市の北側に隣接する松戸市は景行天皇40年、日本武尊が武蔵国へ向かわれる際に、従将の吉備武彦命と大伴武日連の方々と待ち合わせたため、『待つ郷』(まつさと)=『待土』(まつど)と呼ばれ、『松戸』の地名が生まれたと云われています。(松戸神社伝承)
3.市川市の東側に隣接する船橋市は日本武尊の父君であらせられる景行天皇行幸の折、長雨によって水嵩の増した川を渡るに際して土地の民が舟を並べて板を掛け橋と成して帝にお渡り頂いたので、それまでは「湊郷」とよんでいた地名を「船橋」と改めたと云われています(船橋町誌)
(千葉県在住 二等兵さんより)
yurinより返信コメント
重ねてご丁寧な日本武尊の巡行の足跡のご教示をいただき、とてもうれしく拝見いたしました!
日本武尊の東征では、往路はおおよそ東海道、復路は東山道を通過したとみられます。
この中でも茨城県・千葉県は 、往路復路ともに通過した土地です。
……ですから、その足跡や神社伝承も、往路なのか復路なのか?迷ってしまうところがあり、混乱してしまうことがしばしばでした。
今回の二等兵さまからのご教示で、日本武尊が復路に、下総国から武蔵国に渡った経路が、明確になってきました。
大変にありがたいご教示です。
船橋市の大神宮は、天照大神を、お祭りする地域の中心の神明社です。
日本武尊がお祭りしたとされます。
この神社を、お祭りしたのも、むしろ蝦夷を平定した後の、復路での「凱旋」儀式だったように思えてきます。
往路では、市原から外房方面へ向かい、茂原市の橘樹神社に、弟橘媛をお祭りしてそのルートで北上したのではないでしょうか?
蝦夷平定を成し遂げた復路で、常陸国から下総国の東京湾方面に南下し、江戸川や利根川を渡った状況が見えてきます。墨田区の吾嬬神社などにもつながっていくルートです。
国府台での休息、江戸川の旧称「太日(おおひ)川」も初めての知りました!
先の大神宮は「意富比(おおひ)神社」が正式名称です。
第9代開化天皇は「稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)」です。
それで「大日(おおひ)」が神社の名前になったのかしら?、と思っていましたが、むしろ江戸川の旧名称に因んだもののようですね!
市川市教育委員会でも、日本武尊の伝承を採用するようになっているのは、とてもうれしいことです。
景行天皇もまた、愛しい息子を偲んで、丹念に行幸された様子がうがわれます。
実は私は市原生まれですが、市川市→船橋市と引っ越し、船橋大神宮で「七五三」もしました!
二等兵さまのお便りから、前回までも含めて、懐かしい地名が次々出てきて胸を熱くします。
自分の郷土のゆかりの史跡の数々を丹念に回りたい、と改めて思います。
本当ご丁寧なご教示をありがとうございました。今後ともヨロシクお願い申し上げます