こんにちは、yurinです。
先週日曜日は、茨城県の鹿島・潮来(いたこ)方面へ向かいました。
常陸(ひたち、茨城県)と、総(ふさ、千葉県中央から北部)の頭文字をとって、「常総鉄道」「常総最中」「常総の湯」など、「常総(じょうそう)」ナントカという、言葉もよく使われるほど。
それで『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、とても身近に感じられる古典です。
目次
1.『常陸国風土記』で活躍する人々
『常陸国風土記』には、景行天皇、日本武尊が登場しますが、それに関連する地名も旧跡も、驚くほど現在まで残っているのです!
さらに『古事記』『日本書紀』には一度も出てこないのですが、『常陸国風土記』『先代旧事本紀』に登場する、建借馬命(たけかしまのみこと)や、比奈良珠命(ひならすのみこと)という人物ゆかりの古墳や神社が、しっかり痕跡を残してもいます。
日本の古典はたいしたものといっそう感心するこの頃です。
『常陸国風土記』がガイドブックにもなって、一文字一文字が大切で愛おしくなるような思いです。
茨城県の方々はさぞかしこのような風土記が残っているのは誇らしいことでしょう、と千葉県生まれの私は羨ましくなります。
確かに、敗戦後の混乱は、風土記の世界にも暗雲を立ち込めさせてしまい、せっかくこれほどの郷土の歴史が書かれているのに、景行天皇も日本武尊も実在しない、ということになってしまったのです(泣)
彼らにまつわる旧跡はいったいどのように作られたのか?
『常陸国風土記』や『先代旧事本紀』に書かれた人物に関連する神社や古墳があるのは、なぜか?
「創作」というものの、納得のいくような整合性のある説明や創作過程の提示がなされないままに、捨て置かれていたのです(大泣)
…ですが、ようやく最近になって、神社・ご朱印ブーム、古典への回帰の流れが、少しずつふくらんでいる兆しを感じられるのは、実にうれしいことです(拍手)
数年ぶりに行方市を訪れてみると、教育委員会による案内板に、景行天皇や日本武尊の名が掲げられ、神社や旧跡は、地元の有志の方々による手入れや清掃がなされているのを目にすることができました。
とにもかくにも、古典に記されていることに関係してこのようなものがある、と知ることが大切なことと思います。
2.玉清(たまきよ)の井の日本武尊像
『常陸国風土記』行方郡の段です。
行方(なめかた)の郡(こおり)という所以(ゆえ)は、倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)、天の下、巡狩(めぐりみそな)わして、海の北を征平(ことむ)けたまいき。
ここに、この国を過ぎ、すなわち槻野(つきの)の清水に頓幸(いでま)し、水に臨みてみ手を洗い、玉もちて井を榮(さきは)えたまいき。
今も行方の里の中にありて、玉の清水という。
ヤマトタケルは、『古事記』で「倭建命(やまとたけるのみこと)」、『日本書紀』で「日本武尊(やまたけるのみこと)」、『常陸国風土記』ではなんと!「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)」と書かれています!
『古事記』:倭建命(やまとたけるのみこと)
『日本書紀』:日本武尊(やまたけるのみこと)
『常陸国風土記』:倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)
三種の神器の一つの草薙(くさなぎ)の剣を授けられてそれを所持していますから、あづまの国では「天皇(すめらみこと)」と認識されていたようです。
このように古典によって人名の表記や敬称が微妙に違っているところにこそ、まさしく文字のない時代からの伝承の古さと真実味を感じさせます。
言い伝えの井(泉)は、水田の中の島のような地にありました。
池の中央を柵で囲んで、今なお、こんこんと水が湧き出ているのを目にすることができます。
勾玉のついた首飾りを差し出して、この泉が永遠に湧きだすように祈っている、ヤマトタケルの像が立っています。
3.日本武尊が感動した行方(なめかた)の自然と人々の暮らし
行方市の教育委員会の案内板に
玉清(たまきよ)の井
「常陸国風土記」によれば、昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方征討の途中この地を通り、清泉の湧き出るのを見てこれをすくおうとし、誤って曲玉を水中に落としてしまった由緒あるところだという。
当時の人々は自然に水が湧いて出るところを永井戸(ながいど)と称し、霊地として尊敬したと伝えられ、今でも清冷な水が炎天にも枯れることなく湧き出ている。
とあります。
お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、上の『常陸国風土記』の原文とちょっと違うところがあります。
私が引用した岩波書店の『常陸国風土記』では、日本武尊は玉で泉を「榮(さきは)へた」とあるのですが、
講談社の『常陸国風土記』では、「榮」の文字を「落」の写本(書き写したもの)を採用して、「曲玉を水中に落としてしまった」という解釈の方が掲示板に載っています。
まどろこしいのですが、要は古典というものが、
文字のない時代、コピーのない時代を経て、多くの人々が語り継いで書き継いで、大変な年月と労力をかけて伝えられてきたもの
ということが、おわかりいただけたらと思いましたので、あえて細かいことも書いてみました。
ともあれ、日本武尊が、この泉で身に着けていた「玉」で何か行った、ということが、伝えられたのは確かなことです。
人々にとって、実に印象深いできごとであったのでしょう。
日本武尊といえばまず「剣」という「武」のイメージですが、首飾りを捧げる逸話や像からは古代の司祭者としての面影を感じさせてもらえます。
行方市のある地は、霞ヶ浦が北浦と別れて、その内海に挟まれて北から半島みたいに突き出した、舌状の台地になっています。
太平洋の荒波にじかにさらされることがなく、海岸から離れた台地の上には、豊かな農村風景が広がっています。
その丘陵から下ると水田が広がり、湖岸では、手軽に豊富な水産物がとれます。
今でも美味しいお寿司屋さんや佃煮屋さんがあって、これもこちらへ来る楽しみの一つにしています!
風土記では、日本武尊がこの地の山や海がおりなす自然に感動した記事があります。
つづく