『常陸国風土記』から見る古代東国とヤマトタケル【2】

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『常陸国風土記』から見る古代東国とヤマトタケル【1】のつづきです。

4.日本武尊が名づけた行方(なめかた)の地名

『常陸国風土記』には

倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)は、丘の上から四方を望んで、従者を振り返っておっしゃいました。
 
『輿(こし)を止めて歩き、目を上げて遠くを見渡すと、山すそには海が入りこんで、山々は幾重にも重なり合って続いていく……
 
山上には雲を浮かべ、谷間には霧がかかる……この風景にはとても心惹かれる思いがします。とても良い国のありさまですね。
 
やはりこの土地の名は「行細(なめくわし)の国」(山・海の自然の並べ方が、精巧ですばらしい国)がふさわしい』とおおせになりました。

 

「なめかた」は、日本武尊から「海や山という自然の地形が、絶妙に美しい」との賛辞を賜り、そこから地名になったのです!

日本武尊みずから命名した地名です。

その地名をいただいた人々は、有難く、大切に語り継いだのでしょう。

何しろ天皇家の皇子の行啓(おでまし)など、その後、この地域にはなかったのではないでしょうか。

平凡な農村生活の日常の中で、類まれなできごとであったとみられます。

それを大切に市の名称にして、日本武尊の掲示板や彫像を掲げてあり、とてもうれしく、すがすがしい気持ちになりました。

5.丘陵の農村風景に点在する古社

この地から丘陵を登った北浦側には、日本武尊が上陸して船を接岸したという「御船神社」がありました。

一行は鹿島神宮の方面から入ってきたようです。

ここでも清掃して掃き清められている境内がすがすがしかったです。

 

竹林に覆われた崖の下から海岸線までは、今は離れていて、蓮田も交じる水田地帯になっていますが、古代は北浦の海水がはいりこんでいたのでしょう。

丘陵には、豊かな農村風景が広がります。

潮来市は『風土記』に「板来(いたこ・いたく)」と出てきます。

 

南に向かって道路を車で走らせると、シイの巨木がそそり立つのに気づきます。

県内最大級で、指定天然記念物のスダジイをご神木とする神明社がありました。

根元に「大己貴命(おおなむちのみこと)」の石碑などが祭られています。

近くに地元の古い神々を祭る国神神社もありました。

「上戸の獅子舞」が有名だそうです。

優しい秋風が吹いて、ソバの花やコスモスの花が揺れています。

平和な農村の暮らしぶりがうかんできて、何とも和まされる風景でした。

6.ススキが揺れる景行天皇の行在所の風景で

行方市から、南の潮来市を経て、霞ヶ浦を隔てた対岸が稲敷市となります。

我が子を偲んではるばる東国を訪れた、景行天皇の御在所があります。

大和朝廷の重要人物が訪れる周辺一帯は、古代の拠点集落のあった地とみられます。

 

付近には縄文時代早期から後期わたる、国指定史跡の陸平(おかだいら)貝塚があります。

1879年、日本人の手によってはじめて学術調査を行った貝塚だそうです。

ハマグリ、マガキ、クロダイ、スズキなどの魚介類のほか、鹿やイノシシなどの骨も出土しています。

 

千葉県や茨城県は、縄文時代の貝塚が豊富に残されていますが、私も小学生の頃までは、海岸でよく潮干狩りをしました。

その貝塚の近くの丘に景行天皇の行在所(かりのお住まい)があります。

おおっ!道路に高く掲げられた案内板を発見!「景行天皇の行在所跡」とあります。

稲敷市もがんばってくれていて、うれしいかぎりです。

市町村によって古典との向き合い方はかなり違うスタンスであるようですが、やはり実際に古典に記載されている伝承地がある市町村の意気込みは頼もしい限りです(拍手)

現在は湖岸が遠くなっていますが、当時はここまで海水が入り込んで浮島のような地形であったとみられます。

丘に上ると石碑がたっていました。

はるばる、あづまの国まで、我が子を偲んで足を運んだ景行天皇の胸中はいかばかりだったでしょうか。

少し離れたところから、ススキが揺れるその向こうの浮島宮跡の丘を眺めてみることにします。

我が子を偲ぶ景行天皇のお姿がうかんでくるような風情(ふぜい)がありました。

日本武尊が平定した東国の足固めに訪れたものとみられるのですが、やはり愛しい息子を思う親心もあったと思います。

 

景行天皇は、心身ともに頑強で、しかも強運に恵まれて西国を平定したお方でした。

ですから、我が子に対しても「自分ができたことは、子供も同じようにできるはずだ」と、厳しく子供に対してしまうタイプの父親にようにみられます。

日本武尊もそういう父親の期待に応えようと、懸命に頑張ったと思います(泣)

 

景行天皇は80人を超える皇子皇女がいたといいますが、たくさん子供がいて成長するほどに、日本武尊が類まれな優秀な子であったと、気づかされたのではないでしょうか。

もっと、暖かく抱擁してやれば良かった……と。

景行天皇の後は日本武尊の異母弟の成務天皇が即位しましたが、その後は日本武尊の御子の足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)が、14代仲哀天皇として即位します。

「景行天皇の遺言だと思いますね」と、河村先生はおっしゃいましたが、私も全く同感です。

 

年を重ねるほどに景行天皇の、日本武尊への哀惜と後悔は募ったと思います。

「建部(たけるべ)という御名代部(みなしろべ)を残して、後世にも日本武尊の名を残そうとした親心が悲しいです。

 

人間としてありとあらゆる経験を乗り越えて生き続けた、偉大な景行天皇。

オオタラシヒコオシロワケ
長い道のりを踏破して、武によって統治されたお方

という尊称です。

 

欲しいものは全て手にして、ほしいままの権力も得たのに、……後継者とした最愛の我が子を失ってしまう……人生はそのようなはかりしれない深淵があるのかもしれません。

……

帰宅して、霞ヶ浦の特産品の海産物の佃煮を味わいながら、景行天皇と日本武尊父子の人生に思いをめぐらすのでした。

一面のススキの原の向こうの浮島が浮かびます。

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