こんにちは!yurinです。
はるばる遠方へ派遣された大彦命をはじめ、多くの皇族たちは、いったいどんな気持ちで過ごしていたのかしら?
筑紫や大和と違う風土を訪れて、はるか古代の人々に思いをめぐらすこともでてきました。
そんな時『先代旧事本紀』のニギハヤヒノミコトの言葉が……
ふるさとの山河の名称をわが子にたくして……
『先代旧事本紀』「天孫本紀」を読んでいたら、思わず涙してしまった一文がありました。
古典の原文を読んで涙など、初めてだったかもしれません。
筑紫の国から、はるばる大和へ降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)は、地元の豪族の長髄彦(ながすねびこ)の妹を妻として、首尾よく事が運んだのでした。
そして懐妊した妻に告げたのは次の言葉だったのです。
汝(いまし)腹(はら)めることあらば、もし男子(おのこ)あらば、「うましまみのみこと」と名づけよ。もし女子(おとめ)あらば「しこまみのみこと」と名づけん
(あなたのお腹の子供が、男子ならば「美馬見命(うましまみのみこと=麗しい馬見のお方」、女子ならば色馬見(しこまみのみこと=馬見の乙女)と名づけよう」と。)
産所(うみませ)るは男子(おのこ)なり。よりて「うましまみのみこと」と名づく
えっ!そうだったの?と、思わず、ハラハラ涙がこぼれてしまいました……
すぐに、饒速日命(にぎはやひのみこと)が、故郷の山河の名称を我が子に託したのね、と気づいたからです。
そしてまもなく饒速日命はこの世を去ってしまうのでした(涙)
饒速日命(にぎはやひのみこと)は、もしかしたら、幼い子を残してこの世を去ることを予感して、形見の言葉を托したようにも思えてきます。
「ウマシマミノミコト」のマミは馬見(うまみ)から来ています。
『先代旧事本紀』に「馬来田(うまくた)」という千葉県の地名がでてきますが、今では「う」が落ちて、「まくた」と言っています。
マミは「ウマミ」の「ウ」が抜け落ちたとみられるのです。
饒速日命の御子の名称は、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と伝わっています。
物部氏の祖です。
本来はウマシマミであったのものが、転化したのか、あるいは別名が伝わったものでしょうか。
遠賀川の源流の馬見山(うまみさん)
遠賀川は、福岡県嘉麻市(かまし)の馬見(うまみ)山(978m)を源流として、響灘(ひびきなだ、日本海)に注ぎます。
馬見山は、響灘や遠賀川を航行する人々の指標とされた山なのでした。
神話の中で神々が降臨したという山々は、そこから流れる河川流域に住み人々のシンボルでもあります。
海や河川の交通が主流であった近代まで、航行の目標となった山々とそこから流れる河川に対する人々の記憶や思いは格別のものだったのでしょう。
古代の人々は河川の流域を統治して、源流の山々を祭ったのです。
後世に多くの人々によって書き換えられ手を加えられてしまい、偽書として置き去りにされてきた『先代旧事本紀』ですが、そうした中で、古代から連綿と語り継いで、書き継いで消し去ることが出来なかった言葉があったのでした。
饒速日命(にぎはやひのみこと)が残した言葉です。
「こんな言葉を覚えているはずないでしょう?」と、おっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんね。
どうしてどうして。
おそらくはよほど大切な、受け取った者にも心に刻まれる言葉だったので、形見の言葉として伝えられたのではないでしょうか(泣)
ふるさとを離れた人々の、ふるさとへの思い。
それは何千年前の人々と今の人とで変わらない心情なのだとあらためて気づくのでした、
青雲の志のもと、故郷を旅立ち、年老いて異郷で果てた人々の、数千年来変わらない心です。
饒速日命の魂は、行き所のなく今もさまよっていたのでしょうか。
それをそっと、救い上げたような気がしてきました。
『先代旧事本紀』の伝える真実に確かに触れたように思えたのです。