物部氏は天照大神の子孫と主張した『先代旧事本紀』

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こんにちは!yurinです。

太安万侶(多氏)が『古事記』を、藤原氏は『藤氏家伝』を、大伴家持(大伴氏)が『万葉集』を編纂していますが、物部氏は『先代旧事本紀』を編纂しました。

その『先代旧事本紀』はどんな特徴があったのでしょうか?

物部氏のアイデンティティ『先代旧事本紀』

『先代旧事本紀』は、上代古典の中でも最後に編纂された書物です。

9世紀前半頃とされます。

平安時代に編纂されたのに、上代古典として扱うのは、神話や古代の天皇家の時代の伝承を含む内容で、文体もひらがなやカタカナを取り入れた平安スタイルでないからです。

時代は平安時代となり、天皇制も確固とし、安定した律令体制の時代に入っていました。

『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの古典がすでに書かれているのに、あえて物部氏の側からの歴史書を編纂したのです。

 

『先代旧事本紀』編纂の時代以前に、『古語拾遺』『高橋氏文』『新撰姓氏録』『藤氏家伝』など、各氏族の由緒を記す書物が提出されました。

仏教伝来後の神仏混合の中で、薄れゆく神々の由緒をもう一度振り返り、氏族のアイデンティティに目を向ける時代になっていたようです。

 

遣唐使を廃止するような国風文化の流れに向かう、そのきざしといえるようです。

先行する古典に目を通して、不足不備を感じる部分があったのでしょう。

「我が家に伝わる資料や伝承と違う」と、それぞれアピールしたい氏族の由緒が動機になっていたとみられます。

天照大神の子孫としての「天孫」

『先代旧事本紀』はそれまでの古典を、そのままでいいというところは書き写し、ここは我が家の伝わった伝承とは違う、というところは、書き改めて加筆しています。

『先代旧事本紀』10巻のうち、巻3「天神本紀」・巻5「天孫本紀」・巻10「国造本紀」は他の古典に見えない内容を含んでいます。

『古事記』『日本書紀』にみえない独自の神名・人名・氏族の由緒があります。

そうでありながら、『延喜式』・『続日本紀』・『風土記』など適合する内容に真実味があります。

 

『先代旧事本紀』の中でも、その名も5「天本紀」、この巻こそもっとも、物部氏がアピールしたいところだったとみられます。

「天」とは天照大神の子孫です。

天照大神をお祭りする伊勢神宮 内宮

五十鈴川

『先代旧事本紀』に先立つ、古代氏族の系譜名鑑といえる『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)(815年~)という書物があります。

第52代嵯峨天皇(在位823〜809年)の命により編纂されました。

 

その『新撰姓氏録』は、物部氏の先祖の饒速日命(にぎはやひのみこと)を「天(あまつかみ)」と分類したのでした。

「天神(あまつかみ)」とは、天照大神との系譜の、高天の原の神々です。

もちろん天つ神であることは誇るべきことで、そのステイタスは「国つ神(地方の土着の神)」より高いものでした。

 

ですが、やはり「天照大神の子孫」の「天こそ最高の出自だったのです。

物部氏は、天照大神の子孫ですから、単なる天つ神にしないでください、と主張したのです。

 

古代史学者の安本先生は、

「『先代旧事本紀』の編纂者は、『新撰姓氏録』の編纂者に、敵愾心(てきがいしん)をもっていた!?」

と、指摘されています(『古代物部氏と『先代旧事本紀の謎』より)。

 

江戸時代に氏族の由緒を高めるために系図を造作したことはあったようです。

……ですが、律令体制の定まった平安時代に「自分の家系は天照大神の子孫だ」とあえて主張したのです。

 

『古事記』『日本書紀』が編纂されて、『新撰姓氏録』によって氏族の系譜があきらかにされた時に、わざわざ根拠もなくそのような主張はできるものではありません。

さらに『先代旧事本紀』では、

初代神武天皇に抵抗して戦った、長髄彦(ながすねびこ)の妹を妻にして生まれた子から始まったのが物部氏の先祖です。

などと、主張するのですから、下手をすると、朝廷から反逆罪にも問われそうです(大汗)

そこまでの危険をおかしても、朝廷に提出したかったのが、『先代旧事本紀』といえるでしょう。

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