『古事記』『日本書紀』に出てこない銅鐸と継承された矛

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こんにちは!yurinです。

弥生時代の青銅器の祭祀具には「銅鏡・銅矛・銅鐸・銅剣」などがあります。

この遺物の中で、『古事記』『日本書紀』に「鏡・矛・剣」出てくるのでですが、「銅鐸」はでてこないのです。

『古事記』『日本書紀』に、銅鐸が現れない一方で、明らかに弥生時代の遺物とみられる「矛」は、材質は不明ですが、しばしば重要な場面に出てきます。

矛が出てくる場面

『日本書紀』で伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、天つ神から国土の統治を委任されて「天の瓊矛(ぬぼこ、玉と矛)」を賜わりました。

また第10代崇神天皇は、大田田根子(おおたたねこ)の神託を受けて、大和の出入り口の要衝地に、神を祭るように命じます。

「赤盾(たて)八枚、赤矛八竿(やさお)をもて、墨坂(すみさか)の神を祭れ。また黒盾(たて)八枚・黒矛八竿(やさお)をもて、大阪の神を祠(まつ)れ」

と。

 

さらに『古事記』で第12代景行天皇は、日本武尊の東征にさいして「柊(ひいらぎ)の八尋矛(やひろほこ)」を授けています。

これについて本居宣長は『古事記伝』で次のように解釈しています。

いにしえに、将軍などは、総じて矛を杖(つけ)りしことなり。今ここにひいらぎ矛を賜えるもこの故(ゆえ)なり

(昔は、将軍などは総じて矛を手にして掲げていたものだ。今こうしてヒイラギの矛を授けたのもこのような由緒によるものである)

 

各地の伝承の中でも、日本武尊が矛を立てたという山や神社があちこちにありました。

鉾立(ほこたて)山という地名も残ります。

景行天皇から下賜された「柊(ひいらぎ)の八尋矛(やいろほこ)」は、福島県須賀川市の鉾衝(ほこつき)神社にあります。

この神社については別の機会に書きますね^^

 

また、神功皇后は新羅の王城に矛と立てます。

『日本書紀』に第14代仲哀天皇の皇后、神功皇后の三韓征伐の記述にも「矛」が登場します。

(皇后は)ついにその国の中に入りまして、重宝(たから)の府庫(くら)を封じ、国籍文書(しるしのふみ)を収む。

すなわち皇后の杖(つけ)る矛(みほこ)をもて、新羅の王の門に樹(た)て、後の世の印(しるし)としたまう。かれ、その矛、今なお新羅の王の門に樹にたてり

(神功皇后はついにその国に入られて、宝物の収蔵庫を掌握し、国の文書類をお収めになった。そして皇后は手に掲げた矛を、新羅の王城の門に立て、後世に残した。その矛は、今もなお新羅の王城の門に立っている)

 

このように「矛」は、天皇家の先祖の始まりから、引き続いて天皇家の威信を示す、大切な神宝とされてきたことがわかります。

皇位継承の象徴として「鏡・玉・剣」の三種の神器が強調されますが、「矛」もまた、一般の人々に王の威信を示す宝物(威信財)として継承されたことがわかります。

大国主命の「矛」を引き継ぐ

『古語拾遺』で、大己貴神(大国主命)が、国譲りにさいして述べています。

国を平(む)けし時に杖(つ)けりし広矛(ひろほこ)をもて、二柱の神に授けたてまつりてのたまわく、

「吾この矛をもて、ついに功(こと)治(な)せることあり。天孫(あめみま)もしこの矛を用いて国を治めば、必ず平安(さき)くましましさなむ」

(国を平定した時に掲げた広矛を、二柱の神に献上して、おっしゃられました。
「私はこの矛によって、ついに事を成し遂げることができました。もし天孫も、この矛を用いて国を治めたならば、きっと平定されるでしょう」)

※二柱の神:経津主(ふつぬし)神・武甕槌(たけみかづち)神

大国主命はこのように申し上げてお隠れになった、とあります。

国譲りにさいして、前政権から引き継がなかったもの、引き継いだもの、どちらもあったのです。

 

天皇家の先祖は、出雲勢力が象徴とした「銅鐸」は継承しなかったものの、一方で「矛」はその後も大切な権威の象徴として継承したのです。

銅矛(右)

(福岡県那珂川町資料館)

天鈿女命が鳴らす鐸(さなぎ)

「銅鐸」については『古事記』『日本書紀』ともに、いっさい記していませんが、『古語拾遺』に一か所だけ「鐸(さなぎ)」がでてきます。

天照大神が天の岩戸にお隠れになった時、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手にするのが「鐸(さなぎ)」です。

天鈿女命(あまのうずめのみこと)をして

(略)手に着鐸(さなぎ)の矛を持て、石窟戸(いわや)の前において、うけふね、庭燎(にわひ)を挙げて俳優(わざおぎ)をなして、ともに歌い舞わしむ

(アメノウズメノミコトは、手に鐸(さなぎ)の矛を持ち、岩戸の前で空の入れ物の上に立ちました。
そして暗闇を篝火(かがりび)が照らす中で、こっけいな舞を披露したのでした)

「手に鐸(さなぎ)の矛を持ち」とあるように鐸(さなぎ)と矛という、一見別々の品物を手にして、天鈿女命(あまのうずめのみこと)は、岩戸の前で踊りを披露しました。


二見興玉神社にて

 

そしてこれについて推し量るのに役立つのが、まさにこの守矢資料館に展示された鉄鐸です!

天皇家では継承せず、土の中からしかでてこなかった鐸(さなぎ)が、ここ守矢家と諏訪大社では神宝とされ、実際に使用されてきたのでした。

 

もともと銅鐸も鉄鐸も材質に関係なく、古語で「さなぎ」と呼ばれたようです。

銅矛も鉄矛も銅戈(どうか)も鉄戈(てつか)も、古典では区別なく「ほこ」と呼ばれているように。

 

天鈿女命(あまのうずめのみこと)が、手にしたの「鐸(さなぎ)の矛」は、鐸(さなぎ)と矛が一緒になって、イメージがわかないところです。

神話だから、と流してしまいがちですが、守矢資料館の鉄鐸の展示で、御杖(おつえ)という棒に、鉄鐸がくくりつけてあるのを目にして、見事に神話も蘇生するのでした!

御頭祭(おんとうさい)という重要神事において、この柱を持って大祝(おおほうり)が神事を行います。

後世の祭祀から、鉄鐸は首にも吊り下げていたことがわかります。

この鉄鐸は諏訪大社上社に6個一連で3組、信濃の国二の宮の小野神社と隣接する矢彦神社、そしてこの守矢資料館だけに伝えられたそうです。

小野神社

 

守矢資料館の「木柱」は、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が持って踊るには重すぎるようです。

本物の桙に1つ2つの鐸(さなぎ)をつけていたのか、あるいは少し細めの木柱に鐸(さなぎ)と麻紐ひもの飾りをつけたものを「ほこ」といったのか、想像がふくらみます。

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