消えた「銅鐸」の祭祀を残した諏訪大社の「鉄鐸」

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こんにちは!yurinです。

「御柱祭(おんばしらさい)」「御射山(みさやま)祭」など、諏訪大社上社下社合わせて、年間におよそ200の神事が行われ、神道祭祀の古い面影を残します。

諏訪大社の神宝は薙鎌ですが、そのほかに、鉄鐸という神宝があります。

神事の時、鈴のように鳴らして使用します。

「サナギ」とされる銅鐸の祭祀を残したものとみられます。

「誓約に鳴らす」銅鐸の祭祀を残した鉄鐸

守矢資料館は、ささやかな空間ですが、日本の古代について考えを深めてくれる品々が展示されています。

資料館の建物は、簡素ですが自然の風景に良く溶け込んだ設計が秀逸です。

薙鎌が打たれた御柱が、屋根を尽き抜けています^^

薙鎌については先にブログを書きましたので、合わせてお読みいただければと思います。

 

さらに資料館の入り口の軒先に、少し大きめの鉄鐸が一つ吊り下げられています。

 

そして館内に入るとすぐに、諏訪大社の重要神事の「御頭祭(おんとうさい)」に関わる展示物があります。

種々の木々(ヒノキ・コブシ・ヤナギ・ジシャ・柏)で飾った御杖(おつえ)に、布をかぶせた鉄鐸が吊り下げてありました。

鉄鐸は、小銅鐸を5~6個結んで連ねた形ものですが、材質は鉄です。

鍛造した薄い台形の鉄板を丸めて、内部に鉄の舌をつるし、鈴のようになっています。

古くは「佐奈伎(さなぎ)鈴」「御宝鈴(ごほうれい)」と呼んでいました。

毎年の重要神事の御頭祭(おんとうさい)のなかで、大祝(おおはふり)の代理となる神使(おこう)が、御杖とともに持ち出します。

そして県(あがた)といわれた祭祀圏を巡行して、人々を集めて鉄鐸を鳴らし神事を行いました。

 

戦国時代に、甲斐の武田氏と信濃の諏訪氏が、国境の河川で、和睦のあかしに、神長官が持参してこの御宝鈴を鳴らしたことが、文書に残っているそうです。

『古事記』の天の安河(やすのかわ)の誓約(うけい)では、天照大神と素戔嗚尊(すさのののみこと)が、「瓊(ぬ)な音(と)ももゆらに」(玉の音もさやかに)、神宝をやり取りしている様子があります。

誓約するさいに、玉や鈴が打ち鳴らされる時代があったようです。

銅鐸は出雲の大国主命とかかわる!

諏訪の考古学者の藤森栄一氏(1911~1973)は、鉄鐸と銅鐸の関係を考察して『銅鐸』を著しています(『藤森栄一全集第10巻』)。

銅鐸の消滅や諏訪の鉄鐸を探究した書で、銅鐸への関心や考察を大いに深めてもらえます。

藤森氏によれば「小銅鐸と鉄鐸は、銅鐸の原義をもっとも忠実に伝えた最末期現象」ととらえています。

 

簡単にいえば銅鐸の本来の使用法は「誓約のために鳴らす」というもので、それが鉄鐸として残された、というものです。

銅鐸の始まりは20センチほどの小さいものでしたが、次第に大きく、デザインも進化して最終的に1メートル以上になり、王の威信を示す宝物「見せる銅鐸」へと変貌したのです。

しかし突如として消滅してしまったのでした……

 

藤森氏は、銅鐸出土地の近くの神社や、鐸を現す「サナギ」の地名をてがかりに探究を続けました。

そして銅鐸と「鴨氏」「三輪氏」など出雲族の係わりについて言及されたのは、実に先見性のある卓見でした(大拍手)

 

藤森氏の死後、1983年に出雲の荒神谷遺跡から大量の銅剣・銅矛・銅鐸、1999年に同じく出雲の加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸が、発見されたのです!

長野県からは塩尻市柴宮から、最末期の三遠式銅鐸が出土していましたが、さらに2007年に北信濃の中野市柳沢遺跡から、銅戈(どうか)8本とともに、銅鐸5個も発見されたのでした!

三遠式銅鐸

大門神社出土(塩尻市平出博物館)

 柳沢遺跡掲示板の銅鐸・銅戈出土状況

九州式と近畿式の銅戈(どうか)がいっしょに出土したのは、初めての例です!

銅鐸を追い続けた藤森氏が、これらの発見を知ったら、どのようなお言葉をおっしゃったでしょうか?

終末期の銅鐸は饒速日尊(にぎはやひのみこと)ともかかわる!

一方で、古代史学者の安本美典先生も『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』で、「銅鐸こそ、“(大国主の)御財(みたから)”」とされています。

 

それは『出雲国風土記』「大原郡の条、神原(かんはら)の郷(さと)」の記述に「(大国主命が)御財(みたから)を積んでおいた所」という記述があり。

まさしくこの地の加茂岩倉遺跡から、1996年、39個の銅鐸が出土したのです!

それまでに最多出土していたのは1か所で14という、滋賀県野洲市の大岩山銅鐸でしたが、それを一挙に上回るものです!

 

安本先生は『古事記』『日本書紀』の神話には史実の核があることを、長年主張してこられたのです。

その主張を支持して証明するものでした(大拍手)!! 

出雲の国と遠江の国を両極とする座標のうえに、銅鐸の出土状況を位置づけ、古典を参照することによって各国の歴史的特徴が浮かびあがる」

と主張されます。

 

すなわち、大国主命に象徴される出雲勢力、北九州から東遷した饒速日命(にぎはやひのみこと)の勢力、南九州から出発したとされる神武天皇に象徴される勢力、です。

三遠式銅鐸は、おもに三河の国(愛知県東部)や遠江の国(静岡県東部)の方面に特徴的に分布する最末期の銅鐸です。

河の国、江の国、二つの国の頭文字をとって、三遠式銅鐸と呼ばれます。

 

……ですが、最終的に国家を統一した神武天皇の勢力は「銅鐸祭祀」を採用せず、消失させたのでした。

 

「大国主の命によって象徴されるそれまでの出雲勢力は、国譲りの結果、みずからの王国のシンボル的な神宝を、地中に埋めたのではないか。

ちょうど第二次世界大戦の直後、それまで、わが国のシンボルであった日の丸の旗を、多くの人が、恥じるような気持ちでタンスの奥にしまったり廃棄したのと同じように。

これまで、銅鐸などの年代を佐原真氏などの説にもとづき、古く古くみつもりすぎているため、わが国の古代史像は、焦点を結ばず、漠然としたよくわからない形でしか、描くことができなかったようにみえる」

と、安本先生は述べています。

確かに先生のおっしゃるとおり、古典を素直に読んで、考古学の遺物を見つめると、国家統一勢力の様相も明確になってくるようです。

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