小野神社の鐸鉾(さなぎほこ)は神の依代?

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こんにちは!yurinです。

小野神社(塩尻市北小野)は、矢彦神社(上伊那郡辰野町)と隣り合わせにある、信濃の国二の宮です。

小野神社

矢彦神社

祭神は小野神社が建御名方命、矢彦神社では大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(こしろぬしのみこと)さらに天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお祭りします。

 

諏訪信仰の地で、天香語山命は珍しいです。

「矢彦」は越後の国一の宮の彌彦神社と係わるものとみられます。

小野神社は、日本武尊も参拝したという、重ねて由緒の古さを感じさせる社です。

小野神社と矢彦神社の二社は古く同じ社であったものの、領地争いに巻き込まれて社地の境内が分割されてしまったのでした(大汗)

小野神社の鐸桙は神器?

建御名方神(たけみなかたのかみ)は、先住する洩矢神(もれやのかみ)に阻まれて、小野神社のあるこの地にしばらくとどまったとされます。

杉の巨木がそそりたつ、きわめて原始的で森閑とした社叢が、なんとも由緒の古さを感じさせる神社です。

本殿横には、御柱(おんばしら)も天を突き抜けるようにそびえます。

 

そして、小野神社の鐸鉾(さなぎほこ)は塩尻市指定文化財になっています。

「神代鉾(ほこ)」「鐸(さなぎ)の鈴」ともいわれます。

鉾(矛)には12個の鉄鐸が吊り下げられています。

 

小野神社の鐸桙(さなぎほこ)はどのような祭事に使われたかは不明とされるものの、塩尻市教育委員会の掲示板を要約すると、

  • 十二個の鉄鐸が結び付けられる
  • 御柱祭に一かけずつ麻幣(あさぬさ)を結ぶ習わし
  • 古いものはぼろぼろに崩れるほどなので、一定の祭儀に用いられたことを推定
  • 小野神社に「御桙(みほこ)さま」といわれる石がある
  • その石に桙を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろす
  • 祭儀に神の依代(よりしろ)として使用した神器ではないか

と考えられるようです。

 

塩尻市有形文化財 小野神社の鐸鉾(神代桙)

小野神社の鐸桙(さなぎほこ)は、古くから祭事につかわれたとの言い伝えがあるがどのように祭事に使われたかは不明である。

諏訪神社にも同型の桙があり、神領内を巡視する祭儀に使ったものと伝えられている。

小野神社の桙には、十二個の鉄鐸が結び付けられ、さらに麻幣(あさぬさ)がふさふさ結び付けられ、七年目毎に行われる御柱祭に一かけずつ麻幣(あさぬさ)を結ぶ習わしである。

この鐸鉾がどのような祭事に使われたは不明であるが、麻緒が多数取り付けられており、しかもその古いものはぼろぼろに崩れるほどになっているところから、おそらく一定の祭儀に用いられたことが推定される。

境内本殿に向って左方に藤池とよばれる御手洗池があり、そのかたわらの玉垣内に「御桙(みほこ)さま」といわれる石があり、神聖の場として足を踏み入れてはならない磐座(いわくら)となっている。

この石は方型で中央に孔があいているが、おそらくこの石に桙を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろした重要な磐座(いわくら)でありこの祭儀に神の依代(よりしろ)として使用した神器ではないかと考えられている

(塩尻市教育委員会の掲示板より)

 

実物を拝見した教育学者の野本三吉氏によれば

「長さ1メートル70~80mセンチの棒の先に、長い麻和幣(あさしで)が無数に結ばれて、それがまるで獅子の髪の毛のようにからみあい、その中に鉄鐸が並んでいる」

(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』より)

とあります。

麻和幣は7年に1本結ばれて、およそ150本、少なくも1000年以上前から、この鐸鉾(さなぎほこ)は続けられてきたのでした!

守矢資料館のサナギ鈴


守矢資料館にて

古代の世界が現れる鉄鐸

『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』には、九州から「小野族」を追って、信州まで到達して、奇しくも小野神社までたどりついたという、民族学者の谷川健一氏のことも書かれています。

「谷川健一さんが、その鉄鐸を受けとり、トントンとつきながら上下にふると、実に重々しく、妖気漂う、ジャンジャンという音がひびいてくる」

谷川氏が「昔、猨女(さるめ、うずめ)はね、こうしてならしたんですよ、きっと」と言って、それを再現される様子は「そのまま古代の世界が現出してくるよう」とあります。

かつて同じこの場所で、藤森栄一氏もまた谷川氏と同じようになされた、とあります。

 

30年以上前になるでしょうか、谷川健一先生が「邪馬台国の会」でご講演してくださったことがありました。

まだ小さな会でしたが、足を運んでくださったのです^^

「古代人は、行けるところは、どこまでも川を利用して、舟を漕いで進んだんだ。こうして、こうして……」

と、力を込めて舟を漕ぐ様子を再現してくださったことを思い出します。

 

藤森氏も谷川氏も、心ひかれる先生です。

足を使い、手を使い、古代人の生活や心に入っていく……同じところを求めて、どこまでも跡を追っていきたくなるのでした。

奇しくも谷川氏は、九州から小野族を追ってこの地にたどりついた、と書かれています。

 

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