女神の回廊【3】筑紫の国には天照大神の一族が祭られる様子が顕著

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こんにちは!yurinです。

女神の回廊【2】考古学者森浩一先生の見た北部九州の東西のつづきです。

回廊に平和を見守る女神たち

奴国と邪馬台国、狗奴国と邪馬台国の戦乱はやがて終息し、筑紫の国々に平和が訪れます。

そして、宝満山の山麓には大宰府政庁が置かれて、宝満山は筑紫の国の中央部の守護神の山となったのです。

この宝満宮竈門(かまど)神社には、神武天皇の母の玉依姫命が祭られています。

南九州から神武天皇に従い、東征の成就を祈願して没したとされます。

 

宝満山の山麓の大野城市に「御陵」の伝承地があります。

宝満山(829m)は宇美川の源流にもあたり、玉依姫命は故郷の不弥(うみ、宇美)国を見守っていたようでもあります……

『魏志倭人伝』の「不弥国については、ブログで書きましたので、こちらも合わせて読んでみてくださいね。

 

宝満山は、御笠(みかさ)山ともよばれ、御笠(みかさ)川が流れ出します。

参拝を兼ねての登山者も多く、地元の方々にとても親しまれている山と見受けられました。

名前が重なるだけでなく、そういたところも奈良公園の若草山(三笠山)によく似ています。

 

玄界灘の海上からは、この宝満山と若杉山の山容が秀逸でした!

古代人が、筑紫を象徴する山として、女神さまに託して大切にお祭りしてきた山とわかります。

宝満山の南の朝倉市・朝倉郡には、天照大神~神功皇后~斉明天皇など女神さまゆかりの神社が顕著です。

 

大宰府市を南下した朝倉郡筑前町栗田には神功皇后ゆかりの「栗田八幡宮(松峡宮)」があります。

神功皇后の松峡(まつお)の宮

『日本書紀』神功皇后の段(仲哀天皇9年)に、

戊子(つちのえのひ)に、皇后(きさき)、熊鷲(くまわし)を撃(う)たむと欲(おもほ)して、橿日宮(かしひみや)より松峡(まつお)の宮に遷りたまう。

(3月17日、皇后は熊鷲を討とうとして、香椎宮(かしいいのみや)から松峡宮(まつおのみや)へお遷(うつ)りになられた。)

 

時に、つむじ風たちまち起こりて、御笠(みかさ)吹き落されぬ。

かれ、時人(ときひと)、その処(ちころ)を号(なづ)けて、御笠(みかさ)という。

(そのときつむじ風がにわかに吹いて、御笠(みかさ)が吹きとばされてしまった。その時居合わせた人は、そこを名付けて「みかさ」と言った。)

筑前町栗田にある八幡宮も、筑紫平野を見下ろす高台にあります。

楠(くす)の巨木が実にみごとな神域でした。

宝満山の別名「御笠(みかさ)山」、そこから流れる「御笠(みかさ)川」も神功皇后ゆかりの地名でした!

それまであった地名を、新たに認証したのかもしれません。

アマテラスとスサノオが対峙した天の安の河

また、『日本書紀』神功皇后の段(仲哀天皇9年)のつづきで、

辛卯(かのとうのひ)に、層曽岐野(そそぎの)に至りて、すなわち兵(いくさ)を挙(こぞ)りて羽白熊鷲(はじろくまわし)を撃(う)ちて殺しつ。

左右(もとこひと)に語りて、曰(のたま)わく、「熊鷲を取り得つ。我が心即(すなわ)ち安し」とのたまう。故(かれ)、その処(ところ)を号(なづ)けて安という。

(20日、そそぎ野に至り兵を起こし、ついに羽白熊鷲(はじろくまわし)を討伐した。
かたわらの人々に「熊鷲を討ち、心安らかになりました」と仰せられた。そこから「やす」という地名になった)

とあります。

神功皇后が「心安らか」と仰せられたことからの「安(やす)」の地名に因んで、この付近を「夜須(やす)郡」と呼ばれた時代もあるのでした。

 

さらに松峡(まつお)の宮からすぐ南には、小石原川が流れますが、古く「安川」と呼ばれていたそうです。

古代史学者の安本先生は、神話の高天の原を流れる「天の安の河」は、この川ではないかとされています。

すると、天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が対峙したのも、この河川をはさんでのことだったのでしょうか?

 

筑紫コリドーは、神話の時代にも戦いの緊張を伝えているようにみられます。

……天照大神と素戔嗚尊は、神宝を交換し、五男三女を授かり、和平へと導いたのでした。

偉大な天照大神の事跡は、神功皇后、斉明天皇へと語り継がれていたのでしょう。

天皇家の方々が畿内の大和からはるばる遷都した時も、先祖ゆかりの地だからこそ、安心して滞在し、宮を置いたと考えるのがもっとも自然です。

 

筑後川の対岸のうきは市の方面から、女神たちゆかりの朝倉地区の麻氐良(まてら)山方面を仰ぐと、なんともいえない神々しさを感じて、一瞬息をのむほどでした(大拍手)

 

このように筑紫の国といわれた地には、地域を象徴する自然とともに、『古事記』『日本書紀』の神話の天照大神の一族が祭られる様子が顕著です。

さらにその筑紫の国の東西を二分する中央のラインに、女神を祭ることにも気づかされます。

 

戦乱に疲弊し、平和を願う人々には、優しく抱擁し、時に母のように強く守ってくれる女神こそふさわしかったのです。

まさしく「筑紫 女神の回廊」です。


「倭の女王」川崎日香浬氏

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