不弥国は安曇氏と神功皇后出産ゆかりの地

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こんにちは!yurinです。

『魏志倭人伝』の不弥(ふみ)国は、宇美川流域にあったとみられます。

上流部の平野にある宇美八幡宮は、後の時代に神功皇后が応神天皇を出産したゆかりの地です。

そして不弥国のもともとの本貫地は、宇美川の河口から海を渡った志賀島で、志賀海(しかうみ)神社を奉斎する安曇氏が開拓統治した地域と考えられます。

玄界灘に注ぐ河川の重要性

『先代旧事本紀』「国造本紀」に記された130余りの国々のゆかり地名・神社・古墳の状況から、河川を上手に利用した国作りの様相がわかります。

それは『魏志倭人伝』の国々にも、同じようにあてはまるもので、筑紫の国々の中でも、玄界灘に注ぐ河川の重要性が認識されるのです。

 

末羅(まつら)国の松浦川、奴国の那珂(なか)川は、そのまま河川名が国名として残っています。

ですから不弥(うみ)国について、真っ先に想定されるのが、宇美川の流域です。

 

この地はめぼしい考古学の遺物がない、ということが弱点のようですが、考古学の遺物の多い少ないは別にして、「不弥国」が大国のはざまで生き残った理由はほかにありそうです。

 

そのヒントは、宇美川が注ぐ玄界灘に浮かぶ志賀島にあります。

志賀海(しかうみ)神社をお祭りする安曇氏が「不弥国」の開拓統治者とみられるのです。

 

玄海灘に注ぐ河川の流域の人々は、何よりも大陸からの弥生農耕文化を、いち早く摂取できたという利点がありました。

そして河川ごとに開拓は進められたようです。

松浦川、玉島川、長野川、雷山川、瑞梅寺川、室見川、那珂川、御笠川、多々良川支流の宇美川、須恵川、釣川、そして遠賀川です。

そして松浦川と玉島川流域は「末羅国」となり、長野川・雷山川・瑞梅寺川は「伊都国」、室見川・那珂川・御笠川は「奴国」、多々良川支流の宇美川は「不弥国」、須恵川・釣川・遠賀川は「邪馬台国」……そのように統合されてまとまっていったとみています。

末羅国 松浦川・玉島川流域
伊都国 長野川・雷山川・瑞梅寺川
奴国 室見川・那珂川・御笠川
不弥国 多々良川支流の宇美川
邪馬台国 須恵川・釣川・遠賀川

北部九州の戦死者は、まず玄界灘の海岸部にあらわれる、ということから、騎馬の風習がない時代の戦いは、船によって進軍し、河川の河口や海岸での戦闘となったとみられます。

そうした状況から各国の都は、さらに内陸部に築かれたのでした。

北部九州の覇権をめぐって、その内陸部の都の陥落させるべき、最終的な熾烈(しれつ)な決戦もあったのでしょう。

奴国と邪馬台国という大国のはざまで、不弥国が生き残れたのは、「海運力」をいかした国力が評価されたものではないでしょうか。

畿内の「滋賀県(近江国)」に対応か

安曇氏が奉じる志賀海(しかうみ、しかわたつみ、しかのあま)神社の本貫地から、宇美川流域に開拓を進めて、農耕民となっていく人々がいる一方で、それ以前の海人(あま)の性格も保持して、共存させた強さをもっていたとみられます。

交易を得意とする人々なので、敵を増やさない、巧みな生き方があったようです(拍手)

 

日本列島には、多くの同一あるいは類似地名があります。

人々が移動することによって、地名ももたらしたという説があります(鏡味完二『日本の地名』安本美典『邪馬台国への道』)。

 

鏡味氏は、九州と近畿の地名のなづけかたがよく一致していることを指摘しています。

それらはヤマトを中心にして、位置や地形も似ているのでした。

近畿地方では大和の北に、滋賀県があります。

古くは「淡海(あはふみ、あふみ)」といわれ、そこから「(近江)おうみ」と転化していきました。

都に近い琵琶湖を指しています。

琵琶湖の西岸には、高島市安曇川町で湖に注ぐ安曇川があります。

「あど」と呼んでいますが、安曇氏ゆかりの地といわれます。

 

淡海(あふみ)の海(うみ) 夕浪(ゆうなみ)千鳥 汝(な)が鳴けば 情(こころ)も思(しの)に 古(いにしえ) おもほゆ

柿本人麻呂『万葉集』巻3 266

(近江(琵琶湖)の海よ その夕波に千鳥が群れている。あなたたちが鳴くと、胸がせまって、天智天皇の大津の都が栄えていた頃がしみじみと思い出されてきます)

 

天皇家は新天地を求めて「遷都」すると、以前の都はあっという間にさびれてしまうのでした。

都が栄えていた頃から、わずか数十年しかたっていないにもかかわらず……

筑紫の国の北部に志賀島があり、志賀海神社があるのは、近畿の地名に対応して、「不弥国」の本貫地にふさわしいです。

志賀海神社

神功皇后出産ゆかりの糸島市の鎮懐石八幡宮

神功皇后が応神天皇を出産したのは、本来は伊都国の宇美八幡宮(糸島市長野)であったようにみられます。

糟屋郡宇美町に立派な神社があるにもかかわらず、糸島市の宇美八幡宮の地にもささやかな伝承が残るからです。

糟屋郡宇美町の「不弥(ふみ)」地名は、神功皇后の時代の150年以上も前の『魏志倭人伝』に記されたさらに古い地名です。

 

その地名に因み、縁起をかついで神功皇后も、応神天皇の出産後の正式な儀式を、この地でとり行ったものと考えます。

福岡県糟屋郡宇美町宇美に式内社宇美八幡宮はあります。

宇美川に開けた平野部の中央です。

『日本書紀』に、

(第15代)応神天皇、(神功)皇后の新羅を討ちたまひし年……筑紫の蚊田(かた)に生(あ)れませり

とあります。

『古事記』では、

皇后は)御腹を鎮(しず)めたまはむとして、石を取りて御裳(みも)の腰に巻かして、筑紫の国に渡りまして、その御子(みこ)は阿礼(あ)れましつ。

その御子の生(あ)れましし地を名付けて宇美(うみ)という。またその御裳(みも)に巻きたまいし石は、筑紫の国の伊斗(いと)の村にあり

(神功皇后は、新羅征討が成就するまで、御子が生まれないように、妊娠中のお腹を静め落ち着かせようとして、石を身に着けて御裳(みも)の腰に巻いておられました。
そしてようやく新羅から筑紫の国へ凱旋されたのです。そこで御子は無事にお生まれもなりました。
それに因んで「生み(宇美)」と名づけられたのです)

 

このように神功皇后は、石を腰に巻いて出産を抑えて、見事に新羅征討を終えて、筑紫の国に凱旋したのです。

そこで無事に皇子を出産されました。後の第15代応神天皇です。

 

神功皇后ゆかりの石は鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれて、糸島市二丈深江の鎮懐石八幡宮に奉納され、ご神体としてお祭りされてきました。

鎮懐石八幡宮

社前のすぐ下に玄界灘を見下ろします。

女性の身でしかも妊娠中でありながら、新羅征討に立たれた神功皇后。

自信に満ち溢れて輝いていたのでしょう。

応神天皇ご生誕の糟屋郡宇美町の宇美八幡宮

そして応神天皇のご出産の正式な儀式は、糟屋郡の宇美町の宇美八幡宮で盛大にお祝いされたのではなかったでしょうか。

「宇美=不弥=うみ、ふみ」は、もともとあった古い地名であったのですが、神功皇后のご出産を通じ、皇室ゆかりの地名として権威づけされて、再び認知されたのでした。

 

こうした地名談は『風土記』などにもしばしばみられます。

境内には、湯蓋(ゆぶた)の森という楠の巨木があります。

応神天皇が産湯をつかわれた時に、枝葉が茂り湯舟の上におおいかぶさるほどであったとされる大木です。

当時すでに相当の由緒を感じさせる巨木があったのでした。

生い茂るクスノキの枝葉や青空を見上げて産湯をつかわれる応神天皇のお姿も、神々しいほどです。

 

衣掛(きぬかけ)の森は、産着を掛けた木です。

1本で「森」といわれるほどの巨木で、どちらも国の天然記念物になっています。

最適な船材として尊重されるクスノキですが、安曇氏ゆかりの不弥国に、この上なくふさわしいご神木です。

 

神功皇后と応神天皇をお祭りするほか、安曇氏の守護神の玉依姫命、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、住吉大神をお祭りします。

こういう由緒の神社で、今も安産・育児の神さまとして絶大な信仰を受けています。

 

それで私も、初めての子の妊娠中に、たまたま夫がそちらへ出張したもので、お札をいただきました。

息子も無事成人して、就職しています。

宇美八幡宮にお礼申し上げます(拝)

 

玄界灘に浮かぶ志賀島の志賀海神社とともに、『魏志倭人伝』の「不弥国」にふさわしい神域、宇美八幡宮です。

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