女神の回廊【2】考古学者森浩一先生の見た北部九州の東西

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こんにちは!yurinです。

女神の回廊【1】筑紫の国を東西に二分する中央ラインの要衝地に女神のつづきです。

縄文時代の伝統を継承する北部九州東地域

考古学者の森浩一氏は、北部九州の古代を東西に分けて考察しています。

「九州の弥生文化と弥生社会」などと概括的に表現されがちな玄界灘沿岸地域でさえ、西地域と東地域という対比が見られるのである。

なお両地域の境は、時期によって変動はあるが、東地域の西端は、福岡市東部の旧糟屋郡にくいこむといった状況であり、北部九州の弥生文化の中枢と考えられやすい福岡市域も、東西で考古学的様相が異なる。

(『列島の地域文化』より引用)

 

北部九州東地域では、豊前地方にも共通のことであるが、板付Ⅱ式土器(遠賀川式土器のさらに細かい分類による)の併行期に貝殻を施文具(せもんぐ、模様付ける道具)とする多様な文様で飾られた豪華な壺が現れる。

(略)…が同じ時期に北部九州西地域では土器の模様が簡素化されていて、日常の土器のうえにも地域の差異を示している。

(『同著』より)


飯塚市歴史資料館

森浩一氏は、日常の土器にあらわれた、北部九州東西地域の違いを指摘しています。

東西の境界は、旧糟屋郡付近(福岡市東区)されていますから、糟屋郡の若杉山(676m)の太祖神社に、伊奘諾尊や天照大神を守護神としてお祭りする背景もうかがわれてきます。

北部九州東地域は、かたくなに弥生前期的状況な状況―もちろん縄文以来の伝統も―を継承している。

(『同著』より)

と述べておられます。

 

さらに森浩一氏は『記紀の考古学』でも同じことを指摘されています。

北部九州東地域は親近畿的、親出雲的であり、そのことが宗像神社を考えるうえでも重要である。

 

本州に近い遠賀川の流れる北部九州東地域は、縄文時代の伝統をかたくなに継承する地域でもあったようです。

そしてその地域を象徴する山河とともに、天皇家の先祖の神々は祭られています。

これについては先のブログ「天照大神の一族を祭る筑紫の自然」をお読みください。

 

森浩一先生は、「邪馬台国の会」に何度も講演にきてくださいました。

記念講演といえば、森浩一先生のお話しがうかがえると心待ちにしていたときもありました。

どんなに著作をよんでいても、実際にお目にかかり、お話しをうかがうと、いっそう引き込まれました!

 

纏向遺跡が卑弥呼の墓になっていくような流れはどうしたらいいんでしょうか?」という質問があがり、

「まぁ、こういうところに出て来てちゃんと話しを聞いて、それぞれ考えることでしょうな」

とのお答えでした。

振り返って、邪馬台国の会を大切にしてくださったことを思い出し胸がジンとします。

「弟子たちには、自由にやらせてます。邪馬台国=畿内説にしとかんと、就職先にも困るようなんですよ(汗)」

教え子たちの将来を慮る、寛大な先生の親心に、目頭が熱くなります。

……このような状況ですから、いまだに畿内説の先生方が、本気で畿内説を唱えているのか?はたまた生活のためなのか?

……今もわからないところです。。(〃_ _)σ∥?

 

森浩一先生の邪馬台国の会での最後のご講演は、震災の年でした。

京都の病院で点滴をしていても揺れました」と、お話ししていらっしゃいました。

病院というので、少し気がかりでもありましたが、その後、それから2年の後、先生がお亡くなりになったことを耳にした時、信じられない思いでした(大泣)

 

……日本全国に足を運ばれて、各地の遺跡遺物や自然を観察されてのご著作の数々は、大切にして書棚にあります。

安本先生の文献学、森浩一先生の日本の古典を念頭においての考古学、お二人の先生が両輪のように、古代史への道を導いてくださったのです。

北部九州の東部の遠賀川源流から足利尊氏の再起

話しは飛びますが、後世の南北朝時代に、畿内での戦いに敗れた足利尊氏(1358~1305年)は、遠賀川源流まで落ち延びて潜伏生活を続け、そこから見事に再起したのです!

清和源氏のご先祖さまの霊力!を授かったものか、この地から兵力を集結させます。

 

そして博多平野の西端の、立花山の山麓、宇美川が合流する多々良浜(たたらはま)で決戦に及びます(1336年)。

戦国時代には、立花山には立花山城が築かれて、毛利氏と大友氏が帰属を巡って、攻防戦を繰り広げたという要衝地です。

ここから少し南を流れる多々良(たたら)川は、宇美川・須恵川などが流入し、河口付近は大河川となっています。

 

この「たたら」の名称も鉄との関わりが気になる地名です。

この場所で「多々良浜の戦い」があり、大戦場となりました。

北朝方の足利尊氏は、南朝方の菊池武敏(きくちたけとし)・阿蘇惟直(あそこれなお)率いる軍勢と激突し、見事に勝利します。

 

さらに新田義貞(1300~1338)・楠正成(1294~1336)の軍勢を撃破して上洛し、足利幕府を開いたのでした!

足利尊氏と戦った「菊池」「阿蘇」などの名称を見ますと、何やら『魏志倭人伝』の卑弥呼と戦った「狗古智卑呼(くくちひこ=きくちひこ)」を想起しませんか^^?

 

北部九州を二分する大決戦になるときは、この「筑紫コリドー」といわれる地が戦場になったのではないでしょうか?

筑紫コリドーを臨む

高良大社より

広く日本列島を見渡すと、後世に「川中島」「関ヶ原」「天王山」などいわれる有名な戦場地は、実はその地方の要衝地で、他の時代にも戦場になっている場合が多いのです。

 

北部九州の後世の戦闘の様相からも、古代の「奴国」と「邪馬台国」、「狗奴国」と「邪馬台国」の戦闘状況はヒントになりそうです。

北部九州の東西陣営は、筑紫コリドーでの攻防を繰り返したのではないでしょうか?

つづく

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