こんにちは!yurinです。
「○○天皇」というのは、中国風おくり名で漢風諡号(かんふうしごう)と言います。
例えば、”天智天皇”は漢風諡号です。
この漢風諡号は、昔からあったのではなく、古代のある人物が考えたものです。
その人物が、天智天皇と額田王の孫の子、淡海三船です。
目次
古代最大の内乱を引き起こす複雑な人間関係
第39代天智天皇、額田王(ぬかたのおおきみ)といえば古代史や『万葉集』を彩る有名人物です。
この記事のタイトルに、「天智天皇と額田王の孫の子」とありますが、「あれ?二人の孫の子って?子供いなかったのじゃなかったかしら?」と、不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。
そうなんです。
額田王(ぬかたのおおきみ)は、天智天皇の妃になりますが、二人の間に御子は授かりませんでした。
……なのに、孫の子とは?
実は、額田王は再婚だったのです。
天智天皇の妃となる前に、大海人皇子(おおあまのおうじ)、のちの第40代天武天皇の妃として、十市皇女(とおちのひめみこ)を授かっていました。
その十市皇女(とおちのひめみこ)は、天智天皇の大友皇子、第39代弘文天皇の妃となり、葛野王(かどののおおきみ)が生まれました。
葛野王は、天智天皇・天武天皇・額田王が祖父母です!
華麗なDNAが受け継がれて、賢そうですね~~。
しかし・・・はからずも天智天皇の死後、大友皇子と大海皇子の後継者争いは、古代最大の内乱「壬申の乱」をひきおこしてしまったのです。
天智天皇・天武天皇・額田王の血筋から淡海三船(おうみのみふね)
ここで改めて、今回の系図の全体を見てみます。
古代の天皇家は近親結婚が多いのです。
古代最大の内乱といわれる壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇)側と、大友皇子(弘文天皇)側による、皇位継承をめぐる争乱でした。
十市皇女(とおちのひめみこ)にしてみれば、父と夫の争いです。
この内乱は、大海人皇子側の勝利となり、第40代天武天皇として即位します。
敗者となった、大友皇子は亡くなってしまいますが、その御子の葛野王は、天武天皇の孫にもなるわけで、天寿を全うします。
その葛野王の孫が淡海三船(おうみのみふね)です。
歴代天皇の漢風諡号を名づけるというスゴイ業績
その淡海三船のスゴイ業績が、神武(じんむ)・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)……という、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』に登場する、第1代神武天皇から、第44代元正天皇までの漢風諡号(中国風おくり名)を考えだしたことです!
たとえば『古事記』で、一般的に神武天皇とお呼びしている天皇は、
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)
『日本書紀』では、
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)
と、表記されています。
綏靖天皇は、
神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)
神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
安寧天皇は、
師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)
磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
……
つまり、初代のカミヤマトイワレビコノミコトは、九州から畿内へ東征して、「武」によって国内を平定し、「神」となって日本を治めたお方=「神武天皇」と、名づけたのです。
第二代の綏靖天皇は国内を安らかに安定させたお方、第三代の安寧天皇は、国内を穏やかに平和に治めたお方、という具合です。
そして淡海三船の先祖の天智天皇・天武天皇もまさに、その一生を二文字で、追号したのです。
『日本書紀』で、天智天皇・天武天皇は、それぞれ、
・天命開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと)
・天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
という長〜〜いお名前がついてます。
こんなふうだと、確かに故人を語るのに、まどろこしいですもんね。
大化の改新から、白村江の敗戦の難局を乗り切り、大和から近江に遷都して、律令体制の礎を築いた、「智」の誉(ほま)れ高い「天智天皇」。
壬申の乱を引き起こし、政権を奪取した「武」の誉(ほま)れ高い「天武天皇」。
ちなみに天武天皇の系譜は、その後9代で絶えて、第49代光仁天皇は天智天皇の孫で、その系譜が現在の今上天皇まで続くことになります。
今、私たちが歴史を学ぶときに、神武天皇・継体天皇・推古天皇とお呼びするとき、そのお名前を考え出した、淡海三船(おうみのみふね)のスゴイ業績と、天智天皇・天武天皇・額田王につながる三船の華麗な血筋をうかべてみると、一人一人の天皇の名称の重さが、しみじみと伝わってくるのではないでしょうか。