決戦!奴国VS邪馬台国【1】吉野ヶ里・平塚川添遺跡の追憶

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こんにちは!yurinです。

佐賀県東部、有名な吉野ヶ里遺跡の「よしの」は、芳野(よしの=かぐわしい野)にふさわしく、福岡県境の標高1000メートルほどの背振山を仰いで豊かな農村風景が広がります。

……その一方で、背振山の南麓の丘陵上に長く深く掘られた環濠、厳重な城柵が連なり、この地での戦闘状況の激しかったことも偲ばれます。

佐賀県というと・・・??

神崎・吉野ヶ里地区の遺跡は国の指定史跡になり、国営吉野ヶ里歴史公園になっています。

吉野ヶ里歴史公園、その名も奥ゆかしい史跡に足を踏み入れた時、ようやくこの地までたどりついた感動が押し寄せました。

秋の日の平日の午後です。佐賀県で教職をしていらした木原先生がご案内してくださいました。

「佐賀県というと、私には真っ先に唐津焼、有田焼……とか焼き物が浮かびます。とても魅力的で、憧れます!前に佐賀県へきた時も、吉野ヶ里でなく、焼き物巡りをしました(微笑)」

「実は佐賀県では、“新体操”が盛んなんです。高校で指導していた時、国体で優勝しました!その時、いろいろ考えたのは、“焼き物の美しさを追及する心”が伝わっているんじゃないかな?ということでした」

思い出すと、母校の高校が女子高で、新体操のクラブがありました。

友人が新体操に打ち込む様子を見て、「美しいなあ」と、思った覚えが確かにあったのです。

それで佐賀の女子高生が表現する、新体操の美の源流を、美しい焼き物の数々を生みだす心に求めた考察に、たちまち共感したのでした^^

「日本人はたいしたものだと思います。外来の文化を摂取して、それを独自の日本文化の域にまで高めていくのですから」

と、心から賞賛の言葉を送らせていただきました。

 

伊万里焼や有田焼のように、真っ白な磁器に彩り美しく繊細な模様を描く一方で、唐津や武雄の陶器ように、土肌のぬくもりや色合いを残し、シンプルな模様を描いたり、幾何学的な抽象的な模様で構成したり…

佐賀県の数々の陶磁器は、千葉県生まれの私の憧れです(*^^*)

万葉人が憧れた吉野の自然の源流を重ねて

「吉野(よしの)」は、畿内にもある地名です。

皇室の方々が神々しい山々や清流を愛しんで離宮を置かれた地として『万葉集』に残されます。

吉野川は、紀伊の国(和歌山県)の「紀ノ川」の上流で、大和川の源流地域にもあたります。

 

佐賀県東部と福岡県東南部の境には基山(きやま、405m)があります。

「き」の地名にもゆかりがあり、そのポジションも、九州と大和で似ています。

 

畿内に遷都した人々にとって「よしの(吉野)」は、美しく芳しい野、清流の流れる川として、心に刻まれていたのではないでしょうか。

 

見れど飽かぬ 吉野の川の常滑(とこなめ)の 絶えゆることなく またかえり見む

(柿本人麻呂『万葉集 37』)

(いくら見ても見飽きない吉野川 その岩に生える水苔のようにいつまでも、いつまでも絶えることなく、訪れることを繰り返したいものです)

 

み吉野の 吉野の宮は 山柄(やまから)し 貴(とうと)かるらし 川柄(から)し (さや)けかるらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろずよ)に 変わらずあらむ 行幸(いでまし)の宮

(『万葉集 315』)

(み吉野の吉野の宮は、その山そのものが貴いです。川そのものが清らかですがすがしいです。天地とともに長く久しく万代(よろづよ)の後まで、変わらずにあることでしょう。この吉野の宮は)

 

神崎・吉野ヶ里は筑後川支流の田手川・城原川の間にありますが、さらに小さな川やお堀があちこちに流れます。

古代には、清流がいたるところにあったのでしょう。

その神崎・吉野ヶ里の美しい自然の原形が、遠い記憶として、畿内にうつった人々の心に刻まれていたのではないでしょうか。

「吉野」は、大和の宮廷人の聖地でした。

奴国の時代を象徴する甕棺

陶磁器が素晴らしい佐賀県ですが、『魏志倭人伝』の国でいえば、末羅国(松浦川・玉島川流域)からは、後世に唐津焼、伊万里焼などが生まれたのです。

するとこの神埼・吉野ヶ里遺跡を象徴する遺物の一つ、埋葬に用いられる「甕棺」という、弥生土器の最高峰のスタイルも、焼き物の流れの中にあるように見えてきます。

豊臣秀吉は、朝鮮出兵によって朝鮮から陶工たちを連れてきたといいますが、この地には、陶磁器の製作を日本独自の文化レベルに引き上げる素地があったように思われるのです。

そしてこの「甕棺」こそ、奴国と奴国の時代を象徴する遺物とみられます。

甕棺は、佐賀県東部から博多平野を中心に、筑豊地域の飯塚市、山口県、熊本、長崎方面までおよんでいます。

その中心地域は、博多平野から吉野ヶ里付近にあります。

 

近年の発掘成果から、甕棺墓は、縄文時代の本州から九州までみられます。

乳幼児の埋葬例が多いようです。

遺体の上に甕を伏せて埋葬(伏甕)することもありました。

博多平野を中心とする甕棺墓は、弥生時代の中頃に最盛期を迎えます。

 

大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ(屈葬)、土の中に埋葬します。

二つの甕を合わせた形です。

吉野ヶ里のあちこちで、ある程度まとまって埋葬されて出土し、想定で15,000基以上あるそうです!

 

中でも、土を高く持った墳丘の北側には、中央の道の両側に2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。

企画統一された甕のスタイル、整然とした埋葬、それだけでも奴国の王の権力がうかがわれます。

小さな部族集団がそれぞれ土器を作って、祭祀を行い埋葬した時代から大きく進化したようです。

甕棺の中には、縄文時代にない銅剣・銅戈・銅鏡などの副葬品が納められるようになり、新たな時代の到来を感じさせます。

 

一方で、縄文土器にこめられた祭祀性を、「甕棺墓」というスタイルで継承しているようでもあります。

金印奴国の象徴しているのが甕棺墓といえるでしょう。

箱式石棺や木棺墓

金印奴国を象徴する甕棺墓ですが、それが北部九州全体を覆いつくすことはなかったようです。

北部九州東地域は、縄文時代以来の箱式石棺や木棺墓が行われていました。

このブログでとりあげた飯塚市の立岩遺跡には、見事な前鏡鏡・鉄製品・絹の副葬品を伴った甕棺墓があります。

飯塚市博物館にて

奴国の最盛期には、飯塚市も奴国の文化を受容していたようです。

やがて博多平野を中心に興隆を極めた甕棺墓は、弥生時代の中期をピークに終焉を迎えます。

 

北部九州の弥生時代後期、すなわち卑弥呼の時代は、甕棺墓でなく、石の板を組み合わせた箱式石棺から、青銅鏡や鉄製の武具が出土します。

これについては、古代史学者の安本美典先生が詳細言及されています(『「新パラダイムの古代通史」日本誕生記1 日本人はどこから来たか』『「新パラダイムの古代通史」日本誕生記2 卑弥呼の姿が見えてきた』)。

 

神埼・吉野ヶ里地域には、甕棺ばかりでなく、数少ないながらも箱式石棺墓はあります。

その箱式石墓は、奴国の時代から邪馬台国の時代に統治者が交代して、卑弥呼の一族が派遣されて葬られたお墓かもしれない、という考え方です。

つまり日本全国の弥生時代の「お墓の形式」の区別は、地域間の差違だけでなく、同じ地域でも祭政者の交代の可能性も考慮すべきとみられます。

 

北部九州の甕棺と箱式石棺の地域や副葬品を丹念にみていくことが大切と思います。

神崎・吉野ヶ里地区は、北部九州の中央部にあって、北部九州を統治するのに地理的に恵まれたポジションです。

ですから当初は博多平野を中心に発展した奴国も、広大な筑紫平野を統治するにふさわしい地として、那珂川中流の安徳台から、神埼吉野ヶ里に遷都したのではないでしょうか?

つづく

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