神武天皇・日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征を想起する大船団

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こんにちは、yurinです。

あなたは、神武天皇の東征や、日本武尊の東征をどんな風にイメージしていますか?

小さな規模だった、小部隊だった、なんて言う人もいますが、古典や伝承、遺物から見てみると、それはそれは大きな規模だったようです。

1.宗像大社の「みあれ祭」

沖ノ島の写真展では、宗像大社の「みあれ祭」の勇壮な船団のパレードも見ることができました。

田島放生会(たしまほうじょうえ)と呼ばれ、10月はじめ、国家の平穏・五穀豊穣・大漁を祈り、感謝を捧げる宗像大社の最も大きなお祭りです。

田島は辺津宮の鎮座地の名称です。

その大祭に先立ち、9月の半ば、大島の中津宮にお移しした沖津宮の女神さまと、中津宮の女神さまの御分霊(お分けした魂)を、総社である辺津宮へお迎えする、神迎えの神事が「みあれ祭」です。

 

アレは、『古事記』を奏上した稗田阿礼(ひえだのあれ)の名前にもなっていますが、神をお迎えする神籬(ひもろぎ)としての常緑の榊(さかき)のことです。

みあれは、その榊(さかき)にお招きして、降臨した神のお姿で、京都の上賀茂神社の御阿礼(みあれ)神事が知られています。

 

そして宗像大社のみあれ祭りも、三女神さまが、降臨して神事が行われるのです。

 

その時に、大島をはじめ、宗像七浦の漁船約120隻(せき)が、神輿(みこし)を乗せた御座船(ござせん)2隻(せき)をお守りし、

総出でお伴して、色とりどりの大漁旗やのぼりをはためかせて、海上神幸(かいじょうしんこう)します。

 

二柱(にはしら)の女神さまをお迎えしての、大船団のパレードです!

藤原新也氏が沖ノ島の映像とともに語る25分のビデオで、「海の男には、海上で女性の助けが必要だった」と語っていました。

なるほど。二柱の女神さまを、勇壮な海の男たちが、総出でお迎えしてお守りするという意味が、わかってくるような気持ちがします。

孤独で危険な航海を続ける海の男たちだからこそ、女神さまとの出会いが有難く、母の胸に抱かれるような、うれしさと安堵感があったのだと、思われたのです。

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2.神武天皇の勇壮な海軍力

これだけの大船団のパレードの神事は、他では決してみられない光景なのでしょう。

神武天皇・日本武尊の東征の雄姿が浮かんできました。

『古事記』『日本書紀』で、神武天皇は日向国から船団を出航したとあります。

宮崎県日向市の美々津(みみつ)町には「おきよ祭り」という、神武天皇を偲ぶお祭りが伝えられています。

風待ちをしている間に、早朝に潮時が早まって、急いで「おきよ、おきよ」と起こして回ったことに因むお祭りだそうです。

 

時間がなくなり、もち米と小豆(あずき)を一緒にまるめて団子にした「お船出団子」が名物になっています。

宮崎県日向市の美々津(みみつ)町には日本海軍の発祥の碑も建てられています。

神武天皇は、北部九州の遠賀川河口の岡の湊(みなと=福岡県遠賀郡芦屋町)に寄港しました。

ゆかりの岡湊神社があります。

 

さらに遠賀川は、古くは洞海湾とつながっていたとされ、北九州市の、岡田神社・一宮神社がゆかりの地として知られています。

福岡県からは、多くの鉄の遺物が出土していますが、神武天皇の伝承地方面から、多量のヤリガンナの出土があって、多くの船を造っていたのだと言われています。

 

神武天皇は「船師(ふないくさ)を率いて東征された」とあります。

堂々たる海軍力を持っていたとみられるのです。

神武天皇は、母や祖母が海神(わたつみ=海を司る神)である血筋を誇りにもしていました。

 

神武天皇の皇軍は、ようやく近畿地方に上陸するものの、長髄彦(ながすねびこ)に阻まれて、退却を余儀なくされました。

紀伊半島を南下して、熊野灘に入り、吉野川を遡ることになります。

神武天皇は、幾多の困難を乗り越えて、大和入りを果たしたのです。

海軍の力は大きかったのです。

 

3.日本武尊の大船団を見て蝦夷は降伏

神武天皇から12代目の景行天皇の時代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、天皇のご命令を受けて、まつろわぬ蝦夷(えみし)を従わせるべく、東征に途に着いたのです。

幾多の困難を乗り越えて「大きな鏡を御座船(ござせん)に掲げて」海路を北上。

常陸の国を経て、ついに陸奥の国に達しました。

 

茨城県日立市川尻町の豊浦には、日本武尊の船団が寄港した伝えがあります。

豊浦を見おろす岡の上に、日本武尊が必勝祈願したという蠶養(さんよう)神社があります。

 

蝦夷(えみし)の国との境界にきたとき、首長に率いられた人々は、「竹水門(たけのみなと)」(宮城県宮城郡七ヶ浜町付近か)で、迎え撃とうと待ち構えたのですが……

 

……なんと!「王船(みふね)におそれをなして」、戦意を喪失してしまったのです。

そのまま武器を捨てて降伏した、とあります。

 

江戸時代の終焉を導く「ペリーの黒船」の威力は言うまでもないですが、

「船の威力」=国力

のイメージは、ずっと後の時代まで、大きかったようです。

 

今となっては、神武天皇の率いた船団や、日本武尊が蝦夷を屈服させた船団を再現することはできないですが、

あの宗像大社の「みあれ祭り」にみられる、大船団のパレードは、『古事記』『日本書紀』が記す、古い時代の偉人たちが率いた、勇壮な船団を想起させるのです。

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