女神の回廊【1】筑紫の国を東西に二分する中央ラインの要衝地に女神

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こんにちは!yurinです。

神功皇后研究第一人者の河村哲夫先生のお話しから、北部九州の筑紫の地域には、地域を象徴する自然とともに「女神」を祭ることが実に顕著であると認識されてきます。

『魏志倭人伝』に記される「女王国」そのもの。

  • 筑紫平野を見渡す福岡県朝倉市の麻底良山(まてらやま)には天照大神
  • 玄界灘の沖ノ島に祭られる田心姫
  • 博多平野を見渡す宝満山には神武天皇の母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)
  • 朝倉郡筑前町栗田には神功皇后の「松峡(まつお)の宮」の伝承地
  • 百済救援のために斉明天皇が遷都した福岡県朝倉市

まさに「筑紫 女神の回廊」です。

筑紫平野と沖ノ島を結ぶラインの女神たち

筑紫平野を見渡す、福岡県朝倉市の麻底良山(まてらやま、295m)には、天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祭りする麻氐良布(まてらふ)神社があります。

麻底良山

その山を仰ぐ山麓の筑後川の傍らに、斉明天皇の殯(もがり=仮埋葬)をした木の丸殿と御陵があります。

これについては以前ブログに書きましたので、お読みください。

 

後の天智天皇の中大兄皇子が、百済出兵の武運長久を念じて、宇佐八幡宮から応神天皇を勧請した恵蘇八幡宮が建立されています。

恵蘇八幡宮

木の丸殿碑と楠

神功皇后の御子に格別の思いがあったのでは?

神功皇后と応神天皇の母子の姿に、斉明天皇と中大兄皇子の姿を重ねたものとみられます。

その「息長(おきなか)氏の栄光」という支えがあったからこそ、斉明天皇は畿内大和からはるばる遷都し、「女帝」で海外戦争に挑んだのではないでしょうか。

恵蘇八幡宮には、後の天武天皇の時代に、斉明天皇と天智天皇も合わせてお祭りしました。

 

恵蘇八幡宮を北上した朝倉郡筑前町栗田には、神功皇后の「松峡(まつお)の宮」の伝承地、栗田八幡宮があります。

『日本書紀』に記される由緒地です。

 

朝倉地域の北が太宰府市です。

律令時代に「大王(おおきみ)の遠(とお)の朝廷(みかど)」とされた大宰府政庁がおかれました。

大宰府政庁跡

その大宰府の守護神として、博多平野を見渡す宝満山(829m)があります。

現在は菅原道真をお祭りする太宰府天満宮が有名ですが、本来は宝満宮竈門(ほうまんぐうまかど)神社に、神武天皇の母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祭りする山です。

太宰府天満宮

宝満宮竈門(ほうまんぐうまかど)神社

そのラインを延長し日本海へ向かうと、玄界灘の孤島沖ノ島があり、宗像大社の沖津宮があり、宗像三女神の田心姫(たごりひめのみこと)をお祭りします。

北部九州の東西の攻防ライン

筑紫の国を東西に二分する中央ラインの要衝地に、女神さまをお祭りするのです。

まさしく「女神の回廊」といえるのではないでしょうか。

やはりいにしえの日本は、東アジア唯一の「女王国」として知られた国柄ですね。

「女王」の歴史のない中国が、「女王国」と認めたのですから、よほどの重みがあります。

 

このラインについて、季刊邪馬台国130号で編集部は「筑紫コリドー(走廊)」(「奴国の時代(3)北部九州の国々」という言葉で説明しています。

>>梓書院『季刊邪馬台国』130号

玄界灘と筑紫平野を結ぶ平坦な道で、北部九州の生命線というべき重要なルートです。

 

一方、宝満山から流れる宝満川は、東の大分県の日田市方面から流れてくる筑後川本流に合流します。

筑後川本流は、南北から東西へ大きく流れをかえます。

現在の福岡県久留米市・小郡市・佐賀県鳥栖市付近で、古代においては筑前・筑後・肥前の国境になっていました。

物部麁鹿火(もののべのあらかひ)と、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が激戦を繰り広げたのも、この付近です。

御井郡(みいのこおり)で決死の戦い

『日本書紀』継体天皇21年、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)と、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が激戦を繰り広げたと書かれています。

22年の冬11月、甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえねのひ)に、大将軍物部大連麁鹿火(もののべのあらかひ)、親(みずか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井(いわい)と、筑紫の御井郡(みいのこおり)に交戦(あいたたか)う

(22年冬11月11日、大将軍の物部麁鹿火は、自ら兵を率いて、敵の大将の磐井と、筑紫の御井郡(みいのこおり)で戦った。)

 

旗鼓(はたづつみ)相望(あいのぞ)み、、埃塵(ちり)相接(あいつ)げり。はかりごとを両(ふた)つの陣(いくさ)の間に決(さだ)めて、万死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず。遂(つい)に磐井を斬(き)りて、果(はた)して境を定む

(両軍の軍旗と軍鼓(ぐんこ、先陣で用いる陣太鼓)とが激突し、兵士たちがあげる塵(ちり)や埃(ほこり)が入り乱れた。両軍ともに勝機をつかもうと決死の覚悟の戦いを交えて互いにゆずることはなかった。
ついに決着がつく時がきて、磐井は斬られた。そして境界が定められた)

 

御井郡(みいのこおり)とは、高良大社の朝妻(あさづま)の泉に因む名称です。

御井、高良大社、朝妻に関してはこちらにも書いているので、合わせてお読みください。

 

戦場地というのは、長い歴史の中で、何度も戦場なるようです。

継体天皇の時代ばかりでなく、「筑紫コリドー(走廊)」という地は戦場になることが多かったとみられます。

実際に考古学の発掘状況から、北部九州の弥生時代の戦死者の始まりは、玄界灘沿岸で見られるようになりますが、その後の戦いはさらに内陸部に入って繰り広げられたのでした。

 

山麓に大宰府が置かれる宝満山は、分水嶺の山で、南西へ宝満川、北の博多平野には、御笠(みかさ)川、宇美川が流れます。

御笠川流域の西側には、須玖岡本遺跡(春日市)があります。

青銅製品鋳造跡・甕棺・墳丘墓という奴国の繁栄が象徴される地です。

 

その一方で、そこから南へ下った筑紫野市「永岡遺跡」「隈・西小田遺跡」からは、500体近くの人骨が発見され、しかも無残な戦闘の痕跡を残すものも顕著でした。

遺跡の中の未成年者や乳幼児の死亡率も、破格の高さです。

当初は玄界灘の沿岸で多かった戦死者の数は、時代が下ると内陸部での争いになります。

当初の戦いとして、河川の河口から船出して、海岸部での海戦による戦いが想定されます。

 

さらに時代が下ると、河川を深く遡った内陸地での激戦に及んだのです(大汗)

まさしく筑紫の国を二分する回廊の上での戦いであったのではないでしょうか。

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