『万葉集』『風土記』に記される神功皇后の鎮懐石

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こんにちは!yurinです。

源義家は神功皇后ゆかりの鎮懐石に信仰を寄せました。

 

その鎮懐石は、鎮懐石八幡宮の由緒、『万葉集』『筑前国風土記』逸文、『釈日本紀』など日本の古典に、しっかり記されています。

『万葉集』山上憶良が詠んだ鎮懐石

糸島市の鎮懐石八幡宮の由緒には次のようにあります。

鎮懐石八幡宮御寶記を始め、古事記、万葉集の鎮懐石を詠める歌、などによると、神功皇后(息長足日女命)は應(応)神天皇を懐妊しながらこの地を通って、

朝鮮半島に兵を出された時に、卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。

願は叶って、帰国後宇美の里で應神帝をご安産なされた。

そこで神功皇后が経石の璧(たま)、子負(こふ)ヶ原び丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎮懐石と称してその奇魂(くしたま)を崇拝するようになった

 

『筑前国風土記』逸文、『釈日本紀』にも神功皇后の鎮懐石のことは記されています。

江戸時代の貝原益軒の『筑前続風土記』では、寛永(1624~1644)の末頃にこの石を見たという人の話があるものの、盗人が奪われて消失してしまった、ということを記しています。

 

『万葉集』には筑前の国守であった山上憶良が鎮懐石を詠んだ歌もあります。

それによると大小二つの鶏子(とりのこ)の形の、みごとな形とあります。

大きい方は一尺八寸六分(37.5㎝)、重さは十八斤五両(11㎏)ほどといいますから、少し育った赤ちゃんの大きさというところでしょうか。

 

公私の往来に、馬より下りて踞拝(きはい)せずということなし

(道行く人は公私にかかわらず、馬から降りて、必ずひざまずき拝礼した)

 

かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向け平らげて 御心を 鎮(しず)め給(たま)うと い取らして 

斎(いわ)い給(たま)いし 真玉(またま)なす 二つの石を 世の人に 示し給(たま)いて 万代(よろづよ)に 言い継ぎがねと 海(わた)の底 沖つ深江の 

海上(うなかみ)の 小負(こふ)の原に み手づから 置かし給(たま)いて 神ながら 神さびいます 奇魂(くしみたま) 今の現(うつつ)に 尊きろかむ

巻5  813

(お言葉にするのも恐れ多いことですが、神功皇后さまが新羅を平定され、御心をお鎮めになろうと、お取り寄せになり潔斎してお祭りしたかけがえない宝の二つ石です。
それを世の人々にお示しになり、万代(よろづよ)の後までも語り継ぐようにと、深江の海のほとりの子負(こふ)の原に、ご自身の御手でお納めになり、神々しく鎮まることになったのです。この尊い霊石は、今もなお尊いことです)

天地(あめつち)の 共に久しく言い継げと この奇魂(くしみたま)敷かしけらくも

〔右のこと伝え言うは、那珂郡(なかのこおおり)伊知郷(いちのさと)簑島(みのしま)の人健部(たけべ)牛麻呂なり〕巻5  814

(天地とともに永久に語り継ぐように、とこの霊石をここにお祭りしたのでしょう〔以上のことを言い伝えたのは、那珂郡伊地知郷簑島の住人の建部牛麻呂です〕)

神功皇后の時代から300年以上を経た奈良時代にも、神功皇后の伝承は筑紫の国に語り継がれていました!

そのゆかりの鎮懐石の前では、人々は朝廷から命じられたからでなく、自然と馬から降りて拝礼するほどだったのです。

 

長野市の蚊田八幡宮の掲示板では、鎮魂石は「男根型」とあります。

すると、縄文時代にみられるような石棒の形のものが納められていて、それが拝借してきた石なのでしょうか。

そして代わりの石を一つ置いたとか……?

信濃の国に伝えられた鎮懐石が、ホンモノの神功皇后の鎮懐石かどうかは、永久にわからないでしょう^^

 

……ですが、その神功皇后と鎮懐石の逸話が、筑前からはるか遠く離れた信濃の国で、大切に伝えられてきたのは確かです。

私たちに古代の物語を語りかけてくれるのです。

実に有難く、人々の信仰の深さを感じます。

橘と桜が重なる花散里(はなちるさと)

蚊里田八幡宮の境内は、拝殿の半分が舞殿風の造りになっています。

福岡県の糸島の宇美八幡宮・那珂川町の伏見神社と同じ造りです。

そういえば鳥居の下のしめ縄とワラのかけ方も似ていました。

拝殿からは、山上を拝するとともに、その地にたたずむと、眼下の風景や遠方の山並みを仰ぐことができるのです。

 

少し若葉の芽吹いた桜の木立の間から、千曲川と犀川が合流する川中島、通称善光寺平といわれる長野盆地を一望できます。

桜の薄ピンクと萌黄の若葉がおりなす優しい彩りに心が和みました。

奥社はさらに山上にあったようですから、まさに王者の眺めであったでしょう。

桜がここちよい山風に舞い散り、足元を花びらで埋めていきます。

 

なんとも『源氏物語』の「花散里(はなちるさと)」を思わせる優雅な風情です。

物語の花は「橘」なのですが、「花散里」からすぐ浮かぶのは、桜ではないでしょうか。

橘と桜が重なっていっそう優雅ではかない気持ちがしてきます。

 

橘の 香をなつかしみ ほととぎす 花散る里を たずねてぞとう 光源氏

(橘の香りを懐かしんで、ホトトギスが鳴いています。花の散る里をたずねてやってきたのでしょう。橘の香りがした昔の人を思い出し、思わずここへ来てしまいました)

 

橘の 花散る里の ほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き 大伴旅人

『万葉集』巻8  1473

(橘の花が散るときに飛んできて鳴くほととぎすは、花を散るのを惜しんで鳴いているようです。まるで妻を亡くして悲しんで一人で鳴く私のように)

 

五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

『古今集』139  『伊勢物語』「花橘」

(五月を待っていたかのように咲く橘の花の香りがしてくると、なんとも懐かしい香りがして昔の人が思われてならないのです)

 

『日本書紀』の「筑紫の蚊田に生(あ)れませり」の一文から、さまざまな古典がリンクして、さらに筑紫の国から、はるばる信濃の国へ、縄文時代へと思索はひろがっていきました。

『日本書紀』のひとことひとことが大切に思われてきます。

ピンクのしだれ桜が散り敷く幽玄な世界へ

「花散里」の言葉が実にふさわしい蚊里田の里の春。

筑紫の「蚊田」に「里」が入り「蚊里田」になったのは、そのような発音で伝わったものでしょうか。

偶然のこととは思えないほど、風情ある地名です。

長野の市街地の外れにあり、周囲はリンゴ・桃・梨の畑もあります。

橘でないものの、なんともかぐわしい桜の葉の香りも漂ってきます。

 

ピンクのしだれ桜の花びらが舞い散り、実に趣き深い感じがして、こういうのを「幽玄(ゆうげん)」というのかもしれない、と思うのでした^^

春霞にかすむ善光寺平を、陽ざしを浴びてキラキラ輝く信濃川がゆったり流れ、盆地を囲む信濃の山並みを見渡します。

 

「大和は国のまほろば」を「信濃は国のまほろば」と言い換えてもふさわしいほどの眺めです。

そういえば長野には「まほろば」のついたお菓子もありました。

 

日本全国のこうした風景をこよなく愛してきたのが、私たちの先祖です。

いにしえ人々に思いを馳せながら、このような至福のひと時を過ごすことができたのです。

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