神功皇后と源義家をつなぐ長野市の蚊里田(かりた)八幡宮

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こんにちは!yurinです。

邪馬台国はまだまだ続きますが、春も通り過ぎていきそうですので、ちょっとそちらのお話しもしたくなりまして。

筑紫の糸島と信濃の神社を結ぶ、神功皇后ゆかりの鎮懐石をお祭りする神社についてです。

神功皇后ゆかりの鎮懐石を守護神に蝦夷征討に向かう

筑紫の国は、邪馬台国以前も以後も、本州と密接に関わってきました。

源氏の祖と仰がれる八幡太郎義家(1039~1106)は、筑紫の鎮懐石八幡宮(糸島市)のご神体の鎮懐石を守護神として、蝦夷征討に赴いたとされます。

そして子孫は、その鎮懐石を義家から受け継いで、長野市の蚊里田(かりた)八幡宮に大切にお祭りしたのです。

例年以上に寒い冬とは反対に、桜の季節はあっという間に過ぎていきました。

……ですが、信濃路の春の訪れはゆっくりで、4月半ばでもいたるところで美しい桜の花に出会います。

その年によって桜の時期は微妙に違っています。

気合を入れてお花見にでかけても、咲いていなかったり過ぎてしまっていたりするのでした(大汗)

今年の美しい桜を、蚊里田(かりた)八幡宮(若槻東条)でお目にかかることができました(大拍手)

 

神功皇后ゆかりの鎮懐石をご神体にした神社です。

『日本書紀』で、第15代応神天皇は

筑紫の蚊田(かだ)に生(あ)れませり

とあります。

その「蚊田」の地名に因んだ神社です。

これについて「伊都国の宇美八幡宮」「不弥国は神功皇后ゆかりの地」に書きましたので、そちらをご覧くださいね。

 

参道のソメイヨシノは盛りを過ぎていましたが、境内のピンクのしだれ桜は見事でした。

数年前に日本画家の川崎日香浬先生から「長野市にスゴイ神社がありました!」と、ご一報をいただき、ようやく足を運ぶことができたのです。

 

源義家は「八幡太郎(はちまんたろう)」の愛称で知られ、源頼朝、足利尊氏たちの先祖として仰がれる清和源氏の棟梁です。

平安時代、父の頼義(988~1075)とともに蝦夷征討に向かいました。

陸奥守、鎮守府将軍です、

 

前九年の役(1051~1062)、後三年の役(1083~1088)を通じて、奥羽の内乱を平定して東国での源氏の基盤を確固たるものにしたのです。

その蝦夷征討の守護神として持参したのが、神功皇后ゆかりの鎮懐石でした。

大願成就の後、源義家は息子の義隆(~1160)に下賜し、それをご神体に神社を創建し、子々孫々が大切にお祭りしてきたのでした。

ご神体の鎮懐石を息子の義隆にたくす

蚊里田八幡宮の掲示板には次のようにあります。

少し長いですが、大事なところなので、紹介しますね。

社殿によると、当社の霊石は九州福岡県怡土(いと)蚊田の里から運ばれてきました。

鎮懐石と云われ、神功皇后が三韓征伐の折、皇子(応神天皇)のご誕生を遅らせるため腰に帯せられた霊石であると伝えられております。

この霊石を源義家が陸奥征伐に陣中の守護神として奉持し、戦が終わって、その子の義隆に授けられ、仁平年間(一一五0)に、現在の本殿裏山を縁(ゆか)りの地、九州蚊田の里の地名を取って、蚊里田山と称し、その麓に蚊里田神社として霊石を祭ったと伝えられております。

 

治承四年(一一八0)、義隆の子、頼隆が源頼朝から、現在の若槻東条、浅川東条、押田及旧若槻村の大部分を含めた若槻庄を与えられ、文治元年(一一八五)に地頭に任ぜられて、源氏の守護神の八幡様を祀るよう頼朝に命じられ、鎮懐石(霊石)をもご神体とし蚊里田八幡宮として祀られたといわれております。

由来蚊里田八幡宮のご神体である鎮懐石(男根石)は、桐の箱に納めて代々の若槻東条区長保管し引き継ぎ、五月八日の春の大祭に、唐櫃に納めて神社に移し奉り、宮司は奥社に安置し厳(おごそか)かに神事を行ってきております。

男根石はこちらの一画にあります。

つづきます。

古代地域の信仰の一つとして、霊石を形どって造った石、木を神に捧げ、生殖の意からの農作物の豊作を願い、ひいては、子宝、安産、性病その他の病気の早癒を祈られた、その古い石木が数多く残されています。

霊験あらたかな当社は、特殊な信仰の層も厚く遠方からの参拝者も後を絶たないほどです。

大祭はお八日と称し親しまれており、善光寺平の一円の春の三代祭の祭りに数えられ、当日の奉納相撲は一五0年以上の歴史をもち、七反の大幟(のぼり)は佐久間象山先生の筆で大方の人に知られるところであります。

参拝なされる方々は、当社のこの深い由緒につながる神威に自から襟を正されることでありましょう。

(太字とフリガナは古代史日和)

 

掲示板に書かれている通り、境内には古代の信仰がうかがえる石や樹木があります。

「大山津見(おおやまつみ)の神」も特別に祭られていました。

神功皇后・応神天皇~源義家・義隆~源頼朝~佐久間象山まで、古代から江戸・現代にいたる信仰とともに、縄文時代の原始信仰にまで遡って歴史に思いを馳せる古社です。

八幡太郎義家が守護神とした神功皇后

勇武で名高い清和源氏の棟梁の源義家は、源頼朝・(木曽)義仲は彼の5世の子孫です。

それほどの大物ですが、さすがに蝦夷征討の重責に、初めてみちのくに赴くという思いと相当な覚悟があったようです。

そして筑紫の国の怡土(いと=伊都=糸)郡の鎮懐石八幡宮のご神体を守護神として持参することを思いついたのです!

家臣にたくしてはるばる筑紫の国へ足を運び、拝借?してきたのでしょうか。

 

その心中を察するに、同じく蝦夷征討に赴いた日本武尊(やまとたけるのみこと)、坂上田村麻呂の思いも重なります。

日本武尊の守護神は、素戔嗚尊がヤマタノオロチから得た「草薙(くさなぎ)の剣」(天の叢雲(むらくも)の剣)でした。

 

日本武尊の遠征ルートをたどると、源義家や坂上田村麻呂の由緒の神社と重なることがしばしばです。それぞれ先人たちの足跡を頼りに遠征をしたことが偲ばれるのです。

大和朝廷は東国へ重ねて皇族や有力武将を派遣して、基盤を確固たるものにしてきたのでした。

その中でも源義家は、三韓征伐を成就した神功皇后こそを、もっともな守護神にしました。

 

源氏の氏神は八幡神(応神天皇)ですが、その母上の神功皇后の出産に因む鎮懐石を守護神として持参するとは、何とも歴史の奥深さを感じさせる逸話です。

 

福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮・宇美八幡宮と参拝して思いを深くした私には、連綿とつむがれる歴史の糸の霊妙さに打たれてしまうのでした。

宇美八幡宮の横を流れる長野川

鎮懐石がお祭りされている鎮懐石八幡宮は、糸島市二丈深江にあります。

そこから少し内陸に向かって長野川をさかのぼったところに宇美八幡宮があります。

長野川

宇美八幡宮

糸島市長野川付(旧怡土郡長野村)です。

鎮懐石がお祭りされている神社の地名でなく、神功皇后出産のゆかりの地とされる糸島市の宇美八幡宮に「長野」の地名があります。

その「長野」の地名が、応神天皇出世地の「蚊田」の地名とともに、長野市の蚊里田八幡宮にもたらされているのです。

長野県の地名の発祥地は、ここにあったのでしょうか?

 

いずれにせよ、糸島市の鎮懐石八幡宮と宇美八幡宮が、神功皇后出産にゆかりの地であることが、はるか遠くの長野県の神社からも理解されるのは、なんとも奥ゆかしさを感じます。

 

……『日本書紀』に「蚊田」と書いてあるので、長野でも蚊田の地名を作ろう!?神功皇后は実在しないけど、鎮懐石を持ち出してきた話を作ってしまおう……

……などという「創作過程」には、相当のムリや矛盾がでてきてしまいます。

神功皇后の実在も、源義家の神功皇后に寄せる信仰も、素直に解釈していいのではないでしょうか。

 

古代史学者の田中卓氏が、「“祭神の実在”なくして“信仰的事実”なし」(『田中卓著作集11―神社と祭祀』)とおっしゃるのは、まさしくもっともなこと思います。

日香浬先生にご教示いただかなかったら、これほどの神社を見落としてしまうところでした。

感謝です(拝)

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