月~姨捨(おばすて)~更科(さらしな)を連想させる『更級日記』

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こんにちは!yurinです。

おそばで知られる「更科(さらしな)」ですが、長野県長野市と千曲市の付近の旧地名です。

歴史的総称として「川中島」とも、「善光寺平」ともよばれますが、「さらしな」もまた日本文学ゆかりの地名になっています。

その名を負う佐良志奈(さらしな)神社です。

菅原道真のDNAを受け継いで『更級(さらしな)日記』

平安時代の女流文学の代表作の一つの『更科(さらしな)日記』は、菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘によって書かれました。

菅原道真から5代目が孝標です。

ちなみに菅原道真の夫人は、神八井耳命の子孫の島田宣来子(しまだのぶきこ)です。

学問の素養のDNAを受け継いだ家柄なのでしょう。

東国の上総国へ赴任した父のもとで生まれ育った主人公は、『源氏物語』に憧れる13才の少女でした。

父が任期を終えると、京へ戻り、宮仕えを経て、結婚、出産します。

夫の信濃国への単身赴任と、帰京後まもなくの病死、子育て後の孤独な後半生……という40年の人生が綴られています。

 

東路(あづまぢ)の道のはてよりも、なお奥つ方(かた)に生(お)い出(い)でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思いはじめけることにか、世の中に物語というもののあなるを、いかで見ばやと思いつつ……

(都から東の国々へ向かう街道の果てよりも、さらに奥の方で、生まれ育った私です。それで今思い返しても、かなりの田舎者であったと、恥ずかしくなるほどです。)

……ですが、そういう自分がどうしてそのようなことを思い始めたのでしょうか?

この世の中に「物語」というものがある、ということを聞き知って、どうしても読んでみたいと思いながら過ごしていたのです……

……彼女は『源氏物語』の光源氏とお姫さまたちの、心をときめかせるような恋愛に憧れた少女でした。

 

私も千葉生まれなので、千葉生まれのこの女性に、自然に共感してしまいました^^

自然も歴史も平凡な土地柄です。

もっと高い山が見たい、雪国を知りたい、歴史的由緒のある地へ行ってみたい……と。

名月の里と姨捨山(おばすてやま)

長野県の千曲市、旧「さらしなの里」が、夫の故郷です。

それで『更科日記』の女性が、千葉県の上総の国で生まれ育ち、信濃の国へ赴任する夫をもつ、というシチュエーションに、いっそう親近感を感じてきました(微笑)

『更科日記』の女性は、夫の赴任地の信濃へは、一緒に行きませんでした。

そして「さらしな」の地を訪れることは、ついになかったのですが、『古今和歌集』の、

わが心 慰めかねつ 更級(さらしな)や 姨捨(おばすて)山に 照る月を見て

の歌を、本歌取り(古い歌の語句や趣向を取り入れて作歌する)して詠んだ歌があることから、『更科日記』の題名をもってきた、と考えられています。

次の歌です。

月も出でで 闇にくれたる 姨捨に なにとて今宵(こよい) たずね来つらむ

(月もでていない、真っ暗闇の姨捨ですのに、どうしてこのような夜にお訪ねになったのでしょうか)

彼女の日記に「月~姨捨(おばすて)~更科(さらしな)」という連想の自然な流れがあります。

中央の貴族の間で、この地方が名月の里として知られていた例の一つになっています。

この名月にちなんだポスター「さらしなルネサンス」を、あちこちで目にしました。

昭和の作家の堀辰雄は、この『更科日記』をもとにしながら、夫とともに信濃へ赴任する女性を主人公にして小説を描いています。

松尾芭蕉の『更科紀行』と田毎(たごと)の月

さらしなの里の「姨捨(おばすて)」は、『古今和歌集』に詠まれたように、平安貴族から憧れの名月の里でした。

山麓の棚田の一つごとに月影が映り「田毎(たごと)の月」と言われて、千曲川対岸の鏡台山から昇る美しい月の観照地として知られて、日本三大名月の里です。

千曲川

今も仲秋の名月の時期に、俳句の会が催されます。

 

滋賀県大津市の石山寺は、平安時代の女流作家の紫式部が、『源氏物語』を起筆した寺として知られます。

『枕草子』や近江八景に歌われた名月です。

あと一つは四国の高知県高知市の海岸の桂浜とか。

土佐民謡の「よさこい節」に歌われます。

 

『更科紀行』(1688~89)は江戸時代の松尾芭蕉による俳諧紀行文です。

京都~尾張~木曽路を経て、念願の「姨捨山の月」を愛でて、江戸にもどりました。

 

さらしなの里の名月の伝統は継承されています。

今の冠着山(かむりきやま、1252m)が「姨捨山(おばすてやま)」といわれました。

この地を訪れると、天気のいい日には、北に飯綱山、南に冠着山が見渡せます。

北に飯綱山

南に冠着山

どちらも山頂が秀麗な円錐形なので、すぐにわかります。

 

姨捨伝説は、若い嫁にそそのかされた男が、年老いた母を姨捨山へ置いてくるのですが、名月に美しさに打たれて覚醒し、悔い改めて母を連れ帰った、というものです(泣)

俤(おもかげ)や姥(うば)ひとり泣く月の友

松尾芭蕉

芭蕉は幼くして13才で父を亡くし、母は大変な苦労をして育てたようです。

兄に実家の農家と母を托して、江戸に出ます。

 

そしてついに俳人として名をなすようになるのですが、母の死に目には会えませんでした。

芭蕉はその母を、名月とともに偲んで涙したのではないかといわれています。

……苦労して育てた子供たちも、それぞれ手元から巣立っていき、せめて夜空に浮かぶ月影を、心の友として生きる年老いた母たち……そんな姿が浮かびます。

 

「孝行をしたい時分に親はなし」

……芭蕉もまた、このさらしなの里を訪れて、ようやく母の思いに気づいたのでしょう。

「さらしなの里」は、いにしえのさまざまな武人や文人の記憶を蘇らせてくれる場所です。

 

地理的には京都と東国、日本海と東国をそれぞれ往来する旅人が、必ず通過する要衝地の「川中島」として知られて、文学的には名月、で知られる「さらしなの里」です。

古来、多くの武将や文人が足を運んだ地となってきました。

『延喜式』神名帳の「佐良志奈(さらしな)神社」

『延喜式』神名帳の更級郡には、11座が記されています。

信濃の国の48座の4分の1を占めます。

古代の東山道が別れて、越後への道が通じていました。

 

「佐良志奈(さらしな)」神社」(千曲市若宮)。

名前だけで心に染み入ってきます。

創祀は不詳で、当初は更科山(冠着山、姨捨山)に鎮座していたそうです。

現在の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと=第15代応神天皇)。

第19代允恭天皇の時代に黒彦皇子の勧請とされています。

 

早朝に参拝しました。

朝日が山影から次第に昇ってきて、山影が少しずつ消えていきます。

千曲川にかかる大正橋の正面にあります。

この辺りは、豪雪地帯の野沢温泉や飯山地方とは違って、雪はそれほどは積もらないです。

 

千曲川にたたずむと大彦命の川柳将軍塚古墳のある茶臼山の向こうに、秀麗な飯綱山が遥拝できます。

大正橋からの千曲川と茶臼山・飯綱山

冠着山(かむりきやま)の山麓ですが、神社の社殿は飯綱山を遥拝する向きに建てられています。

この付近の神社は、そのような配置になっています。

 

千曲川べりのささやかなお社ですが、なんといっても「さらしな」の名称から無限の奥深さを感じ、心象風景で思いを深くする神社です。

朝の名残りの月影が境内を照らしていました。

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