釈迦堂遺跡は縄文前期から奈良時代におよぶ複合遺跡

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こんにちは!yurinです。

こちらの記事では、桃源郷が広がる縄文遺跡の釈迦堂遺跡と桃の実のお話でした。

 

この記事では、釈迦堂遺跡の出土品や古代の暮らしについてです。

5000点を越える国指定重要文化財と1000点以上の土偶

釈迦堂遺跡は、中央自動車道の釈迦堂パーキングエリアに隣接していて、駐車場から、丘の上へ階段をあがると、博物館があります。

博物館に入る前から期待はふくらみます。

釈迦堂遺跡についての予備知識は少なく、新鮮な気持ちで出土品に向き合えました。

 

博物館の入り口では、濃いピンクの花桃を活けた、渦巻き模様が施された縄文土器が迎えてくれます。

どっしり重量感のある土器なので、大きく活けた桃の花とのバランスが絶妙です。

 

釈迦堂遺跡から出土した5000点を越える出土品が、国の重要文化財(土偶1,116点、土器・石器4,483点、合計5,599点)に指定されています。

土偶の多さは目を見張ります。

日本全国から出土した土偶の1割以上を占めているそうです!

入り口すぐ、さまざまな表情をした土偶の映像で埋め尽くされていました。

釣り目のあどけない雰囲気で口を開けた表情が、なんとも可愛らしいです。

土偶にもさまざまな表情があって、驚かされますね。

 

釈迦堂遺跡は、京戸川の扇状地に開かれました。

その流れは笛吹川となり、やがて北方の南アルプスの水を集める釜無川と合流して富士川となり、駿河湾に注ぎます。

その大河川の上流、岩崎山と蜂城山の間を流れ下る京戸川が形成した扇状地に、遺跡は広がります。

 

扇型(おおぎがた)に広がる扇状地形の典型として教科書に紹介される有名な扇状地だそうです。

発掘調査により、この扇状地の、1万年前からの人々の暮らしがわかりました!

縄文時代の早期末以後、次第に大規模な集落が扇状地のいたるところに形成されるようになります。

 

やがて弥生時代となり、稲作の普及とともに、扇の端の河川近くに集落は移っていきました。

扇状地には、古墳時代になると群集墳が築かれ、平安時代以後再び開発が進み、生活の場となったのです。

さらに江戸時代の後期以後、扇頂部の森が開墾され、ブドウ・モモを中心として果樹畑が一面を覆いつくしています。

まさしく開花時期は桃源郷の様子です!

広域な縄文ネットワーク

釈迦堂の縄文人は、他の地域の縄文人といろいろ物質を交換して、より豊かな生活を営んでいたとされます。

弓矢や矢じりの先に使う黒曜石は、長野県の和田峠付近から、ときには伊豆七島の神津島から、運ばれたものを利用しています。

胸にペンダントのように置かれた守護神のヒスイは、新潟県の糸魚川地方からもたらされたことが、科学的に証明されています。

群馬県の榛名山から軽石も運ばれています。

石材以外の食材も、駿河湾のハマグリが確認されています。

 

そして黒曜石・ヒスイとともに展示された「水晶」こそが、この釈迦堂遺跡の人々の豊かさをもたらしたものでは?と思えてきます。

博物館の入り口には、水晶のブレスレットが陳列されていました。

今では水晶の採掘はなされていないそうですが、石の加工細工の伝統は継承されています。

水晶は、ヒスイととともに、「日本の国石」の候補になった貴石です。

 

土器の模様や粘土からも、長野・関東平野・東海地方との交流を知ることができます。

長野地方の影響とされる褶曲文(しゅうきょくもん)の土器として「水煙型土器」があります。

考古学者の藤森栄一氏『縄文土器』の表紙にし「日本美術史のあけぼのは、井戸尻の水煙型土器と、新潟県馬高の火焔型土器の造形からはじまるといいっていいと思う」と、賛辞を贈った精巧な縄文土器です。

縄文人は、どうしてこのような手のこんだ模様を創造したのでしょうか?

 

しかも個人がそれぞれ好きな形で土器を作るのでなく、それぞれ類似した土器が広がっているのです。

このような装飾性の強い土器は、日常に使用された土器ではなく、特別な日の祭祀に利用されたとされます。

祭祀を共有する部族集団がいたとみられます。

 

装飾性に富んで製作の難しい土器にもかかわらず、土器の形式は広がります。

このような土器を傷つけずに運ぶのは困難で、たちどころに装飾部分を壊してしまいそうです(大汗)

 

土器が運ばれてきたのでなく、その土器づくりの技術をもった人々が移動したとされます。

移動した人みずから、あるいは指導によって、当地方で土器が作られたとされます。

千葉県の加曾利式の多量の土器が出土していることからも、単純なモノの動きだけでなく、土器を作る人間相互の交流を示しています。

複合遺跡としての釈迦堂遺跡の1万年

釈迦堂遺跡のおおよその概略です。

12,000年前 草創期 土器作り始まる 尖頭器発見
9,500年前 早期 土偶が作られ、小さなムラがみられる 堅果類の利用が盛ん
6,100年前 前期 海進が進む(2℃高い)ムラのまとまりが見られる
4,800年前 中期 中部地方に遺跡が増大 ムラがいくつも見られ土偶の祭りが盛ん
4,000年前 後期 気候が寒冷化 遺跡数減少 後期後半の遺物見られなくなる
3,000年前 晩期 ムラが河川に移動

 

釈迦堂遺跡は、縄文時代を通じて遺跡が残ります。

そして弥生時代には、標高の下がる河川近くにムラが移動しますが、古墳時代には再び群集墳が築かれます。

釈迦堂遺跡は、縄文器時代から、奈良時代におよぶ複合遺跡(時代を越えた遺跡)です。

日本各地にこうした複合遺跡は見られ、こうした遺跡の丹念な探求が、日本古代史の解明につながっていくものと考えます。

縄文時代に甕を使用した埋葬があった

北部九州ではたくさんの甕棺を目にしましたが、縄文時代に甕を使用した埋葬はあったのでした!

子供を埋葬する埋甕(うめがめ)です。

縄文時代の幼児の成長には、多くの困難が待ち受けていました。

無事に成人を迎えるのは「奇跡」と言えるほど大変なことだったかもしれません。

生命の誕生の連鎖も奇跡的なものに思えてきます。

出産の無事を祈願する土偶への思いも偲ばれます。

 

縄文時代の集落には、土器がすっぽり入るだけの大きさの穴に、土器をまっすぐ、または逆さまにして入れてある場合があり、これを埋甕(うめかめ)と言います。

埋甕(うめかめ)は乳幼児のお墓と考えられています。

 

集落の一角にまとまって埋めたり、家(竪穴住居)の入り口に埋めたりしました。

釈迦堂では家の入口にみつかっています。

家族が出入りするたびに踏みしめる場所です。

ふたたび母の胎内に宿り生まれ変わるようにと祈ったとされます。

 

山梨県地域の埋甕は、土器の底にわざと穴があけてあったり、底を割ってあったりするものが多くみられます。

自然に土に帰るようにとの配慮とみられます。

 

縄文時代の人々にとっていのちの終わりは、再び生まれ変わる新しい命の始まりを願う瞬間でもあったのでしょう。

埋甕は、まるでいのちの器ともいえます。

と、説明板にありました。

 

「縄文時代の遺物の意味は、文字がないので、確証的なことは言えないのです」と、塩尻市の平出考古館博物館の学芸員の方に伺ったことがあります。

文字のない世界に残された遺物、そこに限りない精神の深さを思うのでした。

博物館の外へ出ると、山並を仰ぐ雄大な風景が広がります。

内への深さと、外への広がりをもつ縄文人に思いは深まります。

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