こんにちは!yurinです。
畿内の紀伊の国の一宮の日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮は、同じ敷地にありながら、日前(ひのくま)宮と国懸(くにかかす)宮に別れています。
なぜなのか不明です。
その“日前(ひのくま)”ですが、元々は、北部九州の佐賀県の神埼・吉野ヶ里の日の隈(ひのくま)山の地を指していたのではないかと考えられるのです。
目次
吉野ヶ里の日の隈山は、紀伊国一宮の元地か?
『肥前国風土記』の小城(おき)の郡(こおり)には
昔(むかし)、この村に土蜘蛛(つちくも)あり。
堡(小城(おき)=城柵)をつくりて、皇命(おおみこと)に従わざりき。
日本武尊(やまとたけるのみこと)巡り幸(いでまし)し日、皆悉(ことごと)に誅(つみな)いたまいき。
因(よ)りて小城(おき)の郡(こおり)と号(なづ)く
(昔、この村に土蜘蛛といわれ抵抗する人々がいた。とりでを築いて、天皇家のご命令に従わなかった。日本武尊が巡行して、ことごとく征伐した。そして「小城(おき)の郡」といわれた)
とあります。
つまり「城(き)=城柵」を築いて抵抗する人々の国です。
邪馬台国が、近畿に東遷すると、「城(き)の国」が「紀の国」となったのではないでしょうか。
そして奈良時代に2文字の良い字を当てるようにという詔勅によって「紀伊の国」の表記になったとみられます。
もともとの九州地方の「き」の国は、そのまま「基」や「城」の文字が使われたのでした。
小城(おき)の郡(こおり)は、現在の佐賀県小城(おぎ)
佐賀県中央部で、東へ佐賀市~神埼市~神埼郡吉野ヶ里町へと続きます。
筑後川北岸の地域は、「城(き)の国」
吉野ヶ里遺跡の厳重な防御用の環濠は、まさしく「城(き)の国」を彷彿とさせます。
邪馬台国の脅威をまざまざと感じさせます。
吉野ヶ里遺跡に復元された高い楼観にたたずむと、背振山の西に天山(1046m)の手前に2つの峰を抱く小山が眺望されます。
日の隈(くま)山(158m)です。
この山は、畿内の紀伊の国の一宮の日前(ひのくま)国懸(くにかかす)神宮に対応した地とみられるのです。
天照大神の肖像の鏡を2枚造る
『古語拾遺』には、鏡に関して次のような記述があります。
是(ここ)に於(お)いて、思兼神(おもいかねのかみ)の議に従いて、石凝姥神(いしこりどめのかみ)をして日像鏡(ひのみかたのかがみ)を鋳(い)しむ。
初めの度(たび)に鋳(い)たる、少(いささか)意に合わず。
是(これ)、紀伊国の日前(ひのくま)神なり。
次の度に鋳(い)たる、その状(さま)美麗なり。是(これ)伊勢の太神なり。
(こうして、オモイカネの神の提案に従い、イシコリドメの神に、天照大神のお姿を象徴した日像鏡(ひかたのかがみ)を鋳造させた。
初めに造った鏡は、いささか意にそぐわない部分もあったが、紀伊国の日前(ひのくま)宮にお祭りする神となった。
続いて鋳造した鏡は、とても美しく麗しかった、これが伊勢内宮のご神体の八咫(やた)の鏡である)
天の岩戸にこもった、天照大神の魂を呼び戻すために、作られた鏡のうち、初めて作られ鏡は、少し形がそこなった鏡であるものの、大切にお祭りされた、と書かれています。
そして2番目に鋳造された鏡は、きわめて秀麗で、伊勢内宮にお祭りされる三種の神器の八咫(やた)の鏡になったのでした。
神埼・吉野ヶ里の「日の隈山」から紀伊の国日前国懸神宮へ
一方で『日本書紀』の一書では、鏡について次のように記します。
高皇産霊(たかみむすひ)の息(みこ)思兼神(おもいかえのかみ)
(略)「その神の象(みかた)を図(あらわ)し造りて、招(お)き奉らむ」ともうす。
かれ、すなわち石凝姥(いしこりどめ)を以(も)て、冶工(たくみ)として、天香山(あまのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛(ひほこ)を作らしむ。
(略)これを用て造り奉(まつ)る神(みかた)は、是(これ)すなわち紀伊国(くのくに)の所坐(ましま)す日前神(ひのくかのかみ)なり。
(タカミムスヒの神の御子のオモイカネの神は……「その神(天照大神)の肖像となるものを造り、お招きしましょう」と、申し上げた。
そこでイシコリドメを工人として、天香具山の銅を採り、日矛(ひほこ、矛とも鏡ともされる)を作らせた。
……こうしてお造り申し上げた天照大神の鏡は、紀伊国のお祭りする日前神(ひのくまのかみ)です)
『日本書紀』では、日矛(ひほこ)を作らせて、日前神(ひのくまのかみ)に祭らせた、とあります。
現在の紀伊の国の一宮は、和歌山市秋月に鎮座する、日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮です。
神社の由緒では、神武天皇の東征の時に、天道根命(あめのみちねのみこと)が、奉じていた鏡を祭らせたことになっています。
実は、天道根命(あめのみちねのみこと)は、『先代旧事本紀』によれば、饒速日尊(にぎはやひのみこと)に供奉してともに下った32神の中の一柱になっています。
日前宮と国懸宮が別れているという不思議
あれこれ考えて、簡略に記しますと、もともと天照大神が天の岩戸にこもった時、鏡は2枚作られました。
その1枚は紀伊国の「日前国懸(ひのくまくにかかす)」神宮にお祭りされ、もう1枚は伊勢内宮のご神体になったとみられます。
そのうち『古語拾遺』『日本書紀』が記した、当初の「日前宮(ひのくまみや)」は、現在の畿内和歌山県の日前宮(ひのくまのみや)でなく、北部九州の佐賀県の神埼・吉野ヶ里の日の隈(ひのくま)山の地を指すのではないでしょうか。
付近には「伊勢塚」という地もあります。
「~くま」という地名は、畿内でなく、北部九州によくみられる地名です。
和歌山県の日前(ひのくま)は、九州からもたらされた名称と考えられます。
日前国懸命(ひのくまくにかかす)神宮は、紀伊国の一宮でありながら、なぜ同じ敷地に日前宮(ひのくまみや)、国懸宮(くにかかすみや)に別れているのか、不明なのです。
……ですが、佐賀県の神埼・吉野ケ里の地から、饒速日尊あるいは神武天皇の東征に従い、天つ神・国つ神とともに遷座したと考えると、矛盾が少ないように思えます。
こうして九州西側のアンチ邪馬台国勢力というべき地の地名、
那(
は、畿内の大和の西側にも、
難(な=難波) →紀伊(き、きい) → 熊野(くまの)
としてもたらされ、合わせて神社も遷座したと考えられます。
九州西側
大和西側
そうした中で、神埼・吉野ヶ里遺跡は、奴国から邪馬台国へと統治者がかわり、天照大神の御魂が祭られたのではないでしょうか。
そう考えると、神埼・吉野ヶ里は「元伊勢」の始まりかもしれないです。
「かんざき(神埼)」は、近江国(滋賀県)の神前(かんざき)
筑後川北岸は鏡の出土が目立ちます。
相次ぐ戦乱に巻き込まれたものの、