こんにちは!yurinです。
決戦!奴国VS邪馬台国【1】吉野ヶ里・平塚川添遺跡の追憶のつづきです。
筑後川に注ぐ宝満川を隔てた朝倉市には、多重環濠集落の平塚川添遺跡があります。
邪馬台国が北部九州を掌握するための最前線の最重要拠点です。
工場や住居が立ち並び、
筑後川の北は”肥の国”ですが、南の”投馬国”はずっと”筑紫の国”です。
投馬国は、早くから邪馬台国の友好国であったとみられます。
吉野ヶ里遺跡と平塚川添遺跡、二つの遺跡が大河川をはさんで対峙します。
どちらも国の史跡です。
筑紫コリドーの南端は、倭国の盟主を争う、奴国と邪馬台国の最大の決戦地ではなかったでしょうか?
目次
平塚川添遺跡と邪馬台国
朝倉市西部、標高20メートルほど、平塚川添遺跡の西側には筑後川支流の小石原川(古く安川と呼ばれた)が流れます。
遺跡の東側を、筑後川支流の佐田川が流れます。
天皇家の先祖は、河川の間に中心集落を形成し、神々を祭る状況が、しばしばみられます。
九州の地図を開くと、神埼・吉野ヶ里と、筑後川を隔てて東部にある朝倉市付近もまた、広大な筑紫平野をおさめる絶好のポジションであることは認識されます。
実際に朝倉平野には、糸島市に近い、福岡市西部の今山で製造された石斧と、飯塚市の笠置山の石材を利用した立岩石包丁によって開拓されています。
つまり当初の朝倉平野は、その後の奴国と邪馬台国の双方の地からの開拓道具によって、開拓が進められています。
その後、この朝倉地域と筑豊の飯塚地域は同じ邪馬台国となり、卑弥呼の時代に、遠賀川流域の筑豊地域から、遷都したのではないでしょうか。
『古事記』『日本書紀』によれば、初期天皇の時代には、代替わりごとに、あるいは一代の間にも数度、遷都したことが知られます。
吉野ヶ里遺跡と平塚川添遺跡は、北部九州の東西を代表する弥生時代の環濠集落のある遺跡です。
吉野ヶ里遺跡
平塚川添遺跡
吉野ヶ里遺跡の環濠は「深いこと」、一方の平塚川添遺跡は「多重であること」が特色です。
そして双方の遺跡を比べると、やはり吉野ヶ里遺跡の集落の方が「敵方の脅威」に深刻に対応したように感じます。
すなわち邪馬台国の脅威そのものです(大汗)
甕棺墓の人骨と環濠にみる邪馬台国の脅威
考古学者の寺澤薫氏は『王権誕生』の中で神戸市桜ヶ丘遺跡の14個の銅鐸、島根県加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸という大量埋納された銅鐸について考察します。
小共同体が持っていた銅鐸が矢継早に埋納されたり、各小共同体から集められた銅鐸が一ヶ所に大事に埋納されたのは、稲作の切羽つまった危機などであろうはずがない。
この時期の政治的、軍事的な緊張を反映していると考えることが合理的だ。
そして桜ヶ丘遺跡の地が、近畿地方の西端にあたることから、
近畿にとって辟邪(へきじゃ=正しい筋道から外れる)すべき悪霊、邪気とは、もっと現実的な北部九州の脅威そのものだったのでないか。
(略)建武中元二年(57)には、ナ(奴)国の朝貢によって金印紫綬(きんいんしじゅ)を賜って再び冊封(中国皇帝が周辺諸国の王・首長に爵位・称号を与えることによって生じる君臣関係)が成立するのであるから、この間の北部九州の脅威への焦燥感たるや筆舌につくしがたいものであったろう。
桜ヶ丘銅鐸の埋納はまさにこうした事態を背景に、五七年直後に実行されたのではないか。
()は古代史日和
寺澤氏の論じる桜ヶ丘遺跡の銅鐸が埋納された時期については、考察の余地があります。
吉野ヶ里遺跡出土の銅鐸
出土状況
ここでは、紀元57年に奴国王が、正式に中国王朝から認知されたことの大きな意味、その勢力の絶大な脅威を、周辺諸国が感じたたであろうことを、
吉野ヶ里の人々が、博多平野の奴国の傘下に入ることになり、さらに奴国から邪馬台国へと、倭国の王が交代する過程を、目の当たりし、
やがて漢王朝が滅亡すると、倭国もまた大乱の時代となり、ようやく邪馬台国の女王卑弥呼が擁立され平定されます。
大陸には魏・呉・蜀の三国時代となり、倭国の女王卑弥呼は景初3年(239)、魏国(220~265年)に、大夫(たいふ)難升米(なしめ)を派遣します。
『親魏倭王』の金印が授受されます。
倭国は大乱を経て盟主の座は、奴国王から、邪馬台国の女王卑弥呼に交代しているのでした!
中国の史書に「大乱」とあるのですから、平和的に禅譲されたとはみられません。
多くの血を流し、その犠牲の上での平和でした。
……さらに、卑弥呼の時代の終焉もまた、大乱でした!
更(あらた)めて男王立つれども、国中(くじゅう)服せず。更(さら)に相誅殺(あいちゅうさつ)する。当時、千余人を殺す
『魏志倭人伝』より
(新たに男王を擁立(ようりつ)したが、国中の人々は納得しなかった。さらに殺し合うことになってしまった。当時、千人以上が亡くなった)
戦いの終焉に鎮魂と平安の象徴として鏡を祭る
北部九州の戦場の様相を想起すると、後世の戦いの様相から、筑紫コリドーの地が浮かびます。
それを証明するように、この神埼・吉野ヶ里の甕棺には、戦いの傷痕を残す遺体が埋納されています。
矢じりの突き刺さったままの遺体もありました(大汗)
激しい戦いで傷を負った戦士を、それでもどうにか運び込んで、
今も昔も、命の重さは等しく、人々の思いもかわらないと、
吉野ヶ里遺跡と平塚川添遺跡を比較すると、吉野ヶ里遺跡の厳重な防御態勢を偲ぶ環濠や城柵が際立ちます。
防御の姿勢で守りを固めざるを得なかった人々の苦悩を感じさせます。
平塚川添遺跡は、深い環濠にはおよんでいません。
こちらの地域は、むしろ天然の要害に恵まれています。
万一のときも、背後の古処山(こしょさん、859m)~馬見山(うまみさん、978m)方面へ入逃げ込み、砦として立てこもれます。
戦国時代の秋月氏は、平時は山麓に居住し、戦闘時には古処山の山城に入ったとされます。
神功皇后に追われた羽白熊鷲(はじろくまわし)も、朝倉方面から、遠賀川源流へ逃亡したようです。
……
筑後川や宝満川を対峙して攻防を繰り返した奴国と邪馬台国ですが、やがて戦いは終焉し、卑弥呼の宗女の台与がたち、ようやく吉野ヶ里の地にも平和が訪れました。
筑後川の北岸は弥生時代後期の「鏡」の出土が顕著です。
前漢鏡
鉄製品の武具の出土が顕著なコリドーの東地域と対照的です。
平和を願うあかしとして、日の隈(くま)山に、天照大神のご神体の二つの鏡のうちの一つが祭られたのではいでしょうか?
そのような過程を想起することで、むしろ畿内の紀伊の国一宮の日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮の成立の背景をうかがうことができると思います。
これについてブログに書きましたので合わせてお読みくださいね。
楼観から日の隈(くま)山をのぞむ
「日の隈(くま)山はどの山ですか?」
吉野ヶ里遺跡の復元された楼観に上って、木原先生に真っ先にお伺いしまました!(木原先生は、佐賀県で教職をしていらした方です)
神崎・吉野ヶ里遺跡を訪れて、まず確認したいのは、日の隈(くま)山でしたから。
「あの山ですよ。あの山は、何かある、とずっと思っていました」
と、佐賀県の地元の先生が、日の隈山を何かただならないスポットとして考えてくださっていたことがわかります。
大小丸い二つのピークからなる山の形そのものが、巨大な前方後円墳みたいな神々しさがあります。
長年おおっていた霧が晴れてくるようです^^
復元された集落や城柵の果て、神崎吉野ヶ里の北西、背振山系の西端に神々しくそびえる、その名も神々しい天山(てんざん、1046m)まで見渡します。
佐賀市・唐津市・小城市・多久市にまたがり、佐賀県のほぼ中央に位置します。
その天山の手前に、二つの円い峰からなるのが日の隈(くま)山でした。
日の隈山と天山(右)
天照大神の御魂(みたま)の鏡が祭られた「元伊勢」に実にふさわしい地です。
神崎(かんざき)の名称もまた、神々をお祭りする地のように思われます。
神崎について「神々をお祭りする地では?」という考察は、安本先生からお伺いしました。
このヒントは絶大でした!
北部九州の権力者であれば、この地を治めたい、と必ず願ったのではないでしょうか。
魏の使者が訪れた時、神埼・吉野ヶ里は、邪馬台国の傘下になっていました。
天皇家の先祖の人々は、大胆に遷都します。
畿内大和でいえば、もともと敵方の出雲族の根拠地であった三輪山の麓に、平定後は宮や御陵を築きます。
纒向(まきむく)の地です。
ひょっとすると、魏の国の使者が訪れた時、使者たちが眺めたのは吉野ヶ里の楼観や城柵だったのではないでしょうか。
神崎・吉野ヶ里は、さすがの遺跡で、古代への探究心を高めてもらえる地でした。
公園内には、遺跡の復元だけでなく、さまざまな古代の体験ゾーンから構成されています。
縄文時代にさかのぼる「越後アンギン」の機織りを、初めて見学することができました!
今もその伝統を継承する新潟県まで、はるばる研修へ行ったという学芸員の方が、懸命に手を動かしていらっしゃいます。
背景に連なる背振山、たくさんの水鳥が飛来する小川、四季の彩りが美しい雑木林など周囲の自然環境ものどかで心が落ち着きます。
いくらでも滞在していたい場所でした^^
奴国と邪馬台国の攻防の地となった吉野ヶ里と朝倉。
その地名の意味を考えさせてくれるのは、
北部九州を遠く離れた地にある、これらの地を訪れたとき、筑紫の地で繰り広げられた、邪馬台国と奴国の決死の攻防に、ふと