こんにちは!yurinです。
令和元年10月の古代史日和は、古代史学者の安本美典先生による特別講演でした。
タイトルは、『日本書紀』神武天皇東征伝承6つの謎。
このブログでは
のつづきで、第6の謎の「神武天皇が東征した理由」についてお伝えしていきますね。
- 第1の謎:暦の逆転現象
- 第2の謎:古代の天皇お年(寿命・享年)はなぜ長いのか
- 第3の謎:神武天皇はなぜ西暦紀元前660年に即位したことに定められたのか
- 第4の謎:神武天皇は実在したのか
- 第5の謎:神武天皇は実在したとすればいつごろの人か
- 第6の謎:神武天皇はなぜ東征したのか
目次
神武天皇の東征 3つの理由
それではいよいよ最大の疑問、神武天皇はなぜ東征したのでしょうか。
それについての安本先生のご見解は3点。
- 神武天皇の英雄性
- 租税制度による国家権力の拡大再生産
- 血統・貴種という「正義」
それぞれ見ていきますね。
1.神武天皇の英雄性
1については歴史とは何か?という大きなテーマに関わっているものです。
歴史は何もかも現代に向かって必然的に動くのでなく、ある個人の出現によって大きく動くことがある、必然性でない部分もあるのでは?というものです。
たとえば中世のアジア・ヨーロッパを席巻したチンギス・ハーンも、もし別の人物だったら、あそこまでの大国になったのかは疑問、というものです。
神武天皇は、初代天皇になるべき人望や体力や見識が傑出していた「英雄」であったと考えられそうです。
2.租税制度による国家権力の拡大再生産
2については国家とは何か?という問題です。
国家とは「租税制度」を確立した時点で、国家となる、というものです。
部族国家でなく統一国家です。
『魏志倭人伝』の邪馬台国について「税をはむ」とあります。
当時、中国の制度を取り入れて、租税制度が確立していました。
租税制度が確立しての強さは、なんといっても戦うための兵を養えるということです。
それは、植民地政策ともいうべき統一国家の強みを日本列島各地に及ぼすものであったでしょう。
部族国家は決して統一国家に勝てない、のはそういう部分です。
3.血統・貴種という「正義」
3について、古代においての正義は「血筋」でした。
天皇家に近い人物こそ人々から尊ばれたのです。
神武天皇は天照大神の血筋を継承する貴種として、周囲から尊崇されたのでしょうし、自身もそれを誇りとしていたのでしょう。
伊勢神宮
その「正義」があるからこそ、日本を統治する意志をもって突き進まれたとみられます。
明治時代に発表された歌をみなさんで
講義の半ばで、資料にプリントしてくださった『紀元二千六百年』『紀元説』の楽譜を参照に、先生のリードで斉唱しました^^
『紀元説』は1888年(明治21年)に発表され、1893年(明治26年)には文部省によって祝日大祭日に唱歌に選定された式典歌
1.雲に聳(そび)ゆる 高千穂の 高根おろしに 草も木も なびきふしけん 大御代(おおみよ)を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
2.海原なせる 埴安(はにやす)の 池のおもより 猶(なお)ひろき めぐみの波に 浴(あ)みし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
「この歌どのように思われますか?」
安本先生は、若い方々の率直な感想がお聞きになられたかったと拝察します。
若い方々はむしろなんのこだわりもない様子でした。
「雄大な歌だと思います」
……高千穂の峰に天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の故事。
古代の奈良盆地に中央には海水が入り込んだ湖であったとされますが、それを眺望する香具山の山麓で即位した神武天皇の故事。
それぞれに因んでの歌です。
こだわりを捨てて歌に向かうと、青空にそびえる高千穂の峰や大海原の眺望が目に浮かび、実に「雄大な情景」が浮かんできます。あらためて感動してしまいました(大拍手)
『紀元二千六百年』は1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元「皇紀」2600年を祝った大祭の時に制定された歌
金鵄(きんし)輝く 日本の 栄(はえ)ある光 身にうけて いまこそ祝へ この朝(あした) 紀元は 二千六百年 ああ一億の胸は鳴る
歓喜あふるる この土を しっかと我等 (われら) ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみと) 紀元は 二千六百年 ああ 肇国(ちょうこく)の雲青し
これまたこだわりない感想で「元気のいい歌ですね」と。
軍歌なども知らない世代ですから。金鵄(きんし)は、神武天皇を熊野山中から大和へ導いた八咫烏(やたがらす)です。
その功績になぞらえて、一級の武人に「金鵄勲章」が与えられた時代もありました。
高校の校章にまでも!こういう歌も「歴史」として伝えていくべき、と客観的に思える時代にもなったようです。
以上が安本先生の『日本書紀』の神武天皇の実像です。
『日本書紀』にもとづき、客観的で再現性のある事実から積み重ねると、神武天皇の東征伝承やその実在を疑って、別の歴史を構築する方が難しいのではないかと思われました。
つづく