こんにちは!yurinです。
先日の古代史日和勉強会では「弥生時代に流れる縄文の息吹(いぶ)き」をお話ししました。(2018年6月3日開催)
古代史日和で「縄文時代」は初めての試みです。
縄文時代研究の専門でない私が、幅広く多地域に及ぶ「縄文時代」をお話しするので、そもそも縄文時代に興味を持った道筋を話してみようと思いました。
簡単にいえば「古典」をもっと深く知りたかったのです。
古典をよんでいると弥生や古墳時代だけでは、どうしても説明がつかないことがでてきます。
神話の始まりの自然神なども、どう考えても縄文アニミズム信仰にまでさかのぼる神々とみられます。
目次
縄文時代、みなさんの反応は?
今年3月の勉強会のテーマ「邪馬台国」の後、「縄文時代を勉強したい」とのご要望があり、さっそく企画実行となりました。
……ですが、時代があまりの急転換!で、他の参加者の方々の、縄文時代への関心のほどはわからなく不安もあったのですが、始まってみると全く心配なしでした(大拍手)
「関心はなかったけれど聞いてみようと思いました」
「縄文時代の深い宗教観のようなものに惹かれます」
「北海道の出身で、縄文遺跡に馴染みがあるので楽しみです」
「南の鹿児島の上ノ原遺跡も知りたいです」
「入れ墨などのいきさつも知りたいです」
「千葉の加曾利貝塚のお祭りで縄文時代の調理法を見てきました」
青森県是川(これかわ)遺跡の遮光器土偶のペンダントを身に着けて!参加して下さったメンバーもいらっしゃいました^^
縄文時代1万年のアイテムは盛りだくさんで、皆さんの関心ある分野や地域も多岐にわたっているようです。
それぞれの縄文への思いを語って下さるのを伺っているだけで、世界は広がり期待がふくらんできました。
縄文時代は豊かな自然資源を活用
郷土の千葉県には「縄文貝塚」があちこちにあります。
そして東京湾が埋め立てられる前の小学生の頃まで、「潮干狩り」へ行くことも多かったのです。
春には野山でわらびやフキを採りにいきましたし、秋には栗を拾い、キノコも採りにいきました。
……それで「これって縄文人と同じことしている!」と思えば、「縄文人」がかなり身近に感じられてきたことは確かです。
縄文時代を概観すると、氷河期のあとの温暖化の中で、日本列島の東には落葉広葉樹帯、西には照葉樹帯が広がります。
その豊かな自然に育まれる環境こそが、縄文文化を育てたのだとわかってきました。
豊かな自然資源のハイレベルな有効活用術です。
特に四季の自然がハッキリする「落葉樹林の林床(森林の地表部分)」が、動植物を豊かにし、人間生活への恩恵をもたらすこともわかってきます。
春の山菜採り、秋のキノコ狩りなども、落葉樹林ならではの楽しみです。
また縄文時代の植物の代表は「栗」ではないでしょうか。
「栗」は今の私たちが食べても美味しいですよね!
土器を発明!し、煮たきしてアク抜きができるようになると、自生している栗を採集するだけでなく、クリの木を栽培して、利用するようになったのも、縄文人の知恵の一つです。
息子が小さい時に長野県白馬村の「ドングリ村」のペンションに宿泊したことがあります。
その名の通り、おりしもドングリなどの木の実がたくさん落ちている季節でした。
息子は面白いことに、誰も教えないうちに、たくさんの木の実の中から「クリ」だけ拾います。
小さめの山栗ですが、やはり美味しいものは、子供にもわかるのでしょうか?
縄文人はクルミ、クリ、シイ、カシなどさまざまな木の実を利用したのですが、息子にもそのDNAが継承されているようだ、など妙に感心したことを懐かしく思い出します^^
第2代綏靖天皇の「ぬなかわ」と縄文ヒスイに入り込む
四季の自然の恩恵を最大に活用する縄文人たちを身近に感じるところがあったのですが、ますます縄文に入りこむようになったのは、第2代綏靖天皇との出会いです!
『古事記』『日本書紀』の初代神武天皇についで即位するのは、神武天皇にとって末子の「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)です。
もとより初期天皇について実在を疑わない立場ですし、まさしく綏靖天皇の名称は、いわゆる「タラシヒコ」「タラシヒメ」など後世的なところは全くなしです。
「ぬなかわ」は後代の天皇名に全く見当たらないです。
敗戦後には「第1代神武天皇」「第10代崇神天皇」「第15代応神天皇」はそれぞれ「神」がつく名称であることから「同一人物説」などもありました。
ですが、「神武」「崇神」「応神」などの漢風諡号(中国風尊称)は、平安時代になってから淡海三船によってつけられたもので、もともとの『古事記』『日本書紀』の記述にないです。
『日本書紀』では、それぞれ全く違う名称です。
- 神武天皇=神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)
- 崇神天皇=御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)
- 応神天皇=誉田別尊(ほんだわけのみこと)
『古事記』『日本書紀』で「神」がつくのは、「神日本磐余彦尊(神武天皇)」「神渟名川耳尊(綏靖天皇)」のお二方だけなのです。
また、「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)」の「耳(みみ)」の名称は、『魏志倭人伝』の「投馬(つま)国」の官名にあります!
すなわち「弥弥(みみ)」「弥弥那利(みみなり)」です。
「みみ」の名称は『古事記』『日本書紀』が編纂された7、8世紀の時代風でなく、3世紀に記される名称です!
それでは「ぬなかわ」とはどこから来ているのでしょうか?
30~40年前は、インターネットですぐに検索でききる時代でなかったので、「ぬなかわ」に行きつくまで結構大変でした(汗)
……ようやく日本史学者の坂本太郎氏の論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」、本居宣長の『古事記伝』にありました!
「ぬなかわ」は、越後国頸城(くびき)郡の「奴奈川(ぬなかわ)郷」に因む名称ということがわかります。
そして谷川健一氏編「日本の神々~神社と聖地北陸~」から新潟県糸魚川市の奴奈川(ぬなかわ)神社にたどりついたのです。
なんと「ぬなかわ」は、縄文時代の始まりから!、ヒスイの玉作りの原産供給地でした!
長野県で入手した郷土史家の郷津弘文氏の『千国街道から見た日本の古代』、『小谷民俗史』などに出てくる「ぬなかわ」「ヒスイ」からもつながってきました(拍手)
第2代天皇名になった縄文ヒスイ聖地の輝き
ここで第1代~第3代の天皇のお名前を確認してみます。
1~3代の『日本書紀』()は『古事記』の天皇名です。
第1代神武天皇 神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命) かむやまといわれびこのみこと
第2代綏靖天皇 神渟名川耳尊(神沼河耳命) かむぬなかわみみのみこと
第3代安寧天皇 磯城津彦玉手看尊(師木津日子玉手見命) しきつひこたまでみのみこと
まず第1代神武天皇は、神+日本(やまと)+磐余(いわれ)+彦(ひこ)です。
第1代神武天皇 神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命) かむやまといわれびこのみこと
「やまと」は現在、「大和」と記されますが、『古事記』の太安万侶(おおのやすまろ)は「倭(やまと)」の文字で表記しました。
しかし『日本書紀』では、国史を編纂するにあたり、「背の曲がった小人」を意味する「倭」の文字は好ましくないと判断したようで、「やまと」を「日本」で表したのです。
「日の本(ひのもと)」の意味をこめて当てたのです。
さらに「磐余(いわれ)」は、天の香具山の山麓にそって「磐余(いわれ)の道」があることから、昔の人は磐余(いわれ)といえば香具山を思い起こしたことでしょう。
神武天皇は、神聖な香具山の土で土器を作り、天つ神国つ神をお祭りします。
大和の為政者としての姿勢を民衆に知らしめました。
香久山は大和の国の支配統治を象徴する山でした。
また第3代安寧天皇の磯城(しき)にあるのが、三輪山です。
第3代安寧天皇 磯城津彦玉手看尊(師木津日子玉手見命) しきつひこたまでみのみこと
出雲氏族を象徴する山です。
安寧天皇の母や皇后は三輪山ゆかりの出雲の大国主命の系譜の女性です。
その由緒に因んで命名されたとみられます。
こうしたことから考えると第2代の綏靖天皇の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)の「ぬなかわ」も、母や皇后に因んでの名称だったように考えられるのです。
「神やまと」と「神ぬなかわ」から開く縄文の世界
神渟名川耳命(神沼河耳命)の「ぬなかわ」について、『糸魚川市史』にはこのような説明があります。
ポイントをお伝えしますね。
出雲の大国主命と越(こし)の奴奈川(ぬなかわ)姫は結婚した
越の奴奈川家からみれば、神沼河耳命は、沼河家の孫にもあたる
それで神沼河耳命の「ぬなかわ」も出雲の大国主命の由緒を通じて、もたらされたのだろう
神武天皇の皇后(綏靖天皇の母)は『古事記』で、三輪山の神の娘、『日本書紀』で、大国主命の子の事代主命(ことしろぬし)の娘です。
綏靖天皇の母は、神武天皇と結婚する以前は、越(こし)の奴奈川(ぬなかわ)姫のように、「ヒスイ」を身に着けて祭祀を行う巫女だったのではないでしょうか。
ヒスイの大珠
綏靖天皇の「ぬなかわ」に思いを巡らせます……。
初代神武天皇に続く、第2代の天皇の名称に縄文ヒスイの聖地、「ぬなかわ」の地名が入っているのは、大変な重みのある真実です。
歴代125代の天皇の中で、地方の名称が入っているのも「ぬなかわ」だけです。
「神やまと」と「神ぬなかわ」
この古典に記されたお二方の天皇名をしっかり心に刻みたいものです。
縄文を知るほどに、ますます遺跡・内容・地域も広がり深くなります。
その数ある縄文アイテムの中で、ただ一ヶ所「神ぬなかわ」と天皇名に入れて、縄文ヒスイの聖地を称えたことで、縄文時代を大切にする姿勢が伺われ、日本人として誇りに思います(大拍手)
綏靖天皇と縄文ヒスイ「ぬなかわ」については、
橿原考古学研究所の関川尚功先生とご一緒に掲載していただき、
……こうして縄文ヒスイの聖地「ぬなかわ」は、縄文世界の扉を開いてくれたのでした。
……
「福岡の板付遺跡は、近くに現在まで人々が居住する複合遺跡です。唐津市の菜畑遺跡も!」
「縄文早期に広く冷温帯落葉広葉樹林がありますが?」
「綏靖天皇のヌナカワの由緒について、他に記されているのでしょうか?」
「糸魚川と長野の上田と板付が両親と妻の故郷です!」
糸魚川方面で玉作りしていた人たちの中から、伊都国に来て玉作りとかした人もいたのではないでしょうか?
「タケミナカタを大切にしよう!」……
勉強会では、皆さんの真剣な積極的な姿勢に、こちらも楽しく引き込まれて、あっという間の時間でした。
『魏志倭人伝』につながる複合遺跡
皆さんとのやり取から、ご教示をいただき、縄文時代を進化させていきたいと思います。
今回このブログで最後に、取り上げておこうと思うのが「複合遺跡」です。
複合遺跡というのは、つまり一つの時代に限らず、時代を越えた遺跡です。
縄文遺跡を尋ねて、しばしば出会うのが、弥生時代あるいは古墳時代まで続いている遺跡があることです。
今回数多くの縄文遺跡から、いくつかピックアップして「縄文遺跡概観マップ」を作りました。
それについて、これも追加しておいた方がいい、とのお声があがったのが、北部九州の菜畑遺跡・板付遺跡でした。
どちらも『魏志倭人伝』つながる、とても大切な複合遺跡では?というご指摘でした。
確かに二つとも重要な複合遺跡と見られます。
いろいろ考えますと、すでに縄文時代に、後の『魏志倭人伝』の国々の原型になる拠点集落は、あったようにみられるのです。
すなわち後の末羅(まつら)国の菜畑遺跡、奴国の板付遺跡、邪馬台国の山鹿遺跡……などです。
複合遺跡は、北の青森県までみられます。
こうした「複合遺跡」を考慮して、縄文遺跡を見ることが大切と思います。
7月に再び縄文時代の勉強会を開催する予定です。
→終了しました
縄文時代のテリトリーは広く、語りつくせるものではないですが、皆さまの縄文への関心を少しでも広げるステップになればと願っています。
おりしも、古代史日和勉強会は、3周年を迎えます。
2週間後には、福岡から河村先生をお迎えして、「神功皇后」の勉強会を予定しています。
→終了しました
神功皇后研究の第一人者です!
古代史の重要人物の神功皇后の、九州方面の情報を知ることができる、チャンスです!
プラス、河村先生のユーモアある語り口に、笑いの絶えない時間になりそうな予感……^^
そして7月には東京国立博物館「1万年の縄文の美」展の見学会、3時間の縄文勉強会!なども予定しています。(くわしくはメルマガにて)
季節は暑い夏に向かいますが、古代史への思いもますます熱くなりそうですね!
……ひとまず昨日はお疲れさまでした。
ヤタガラスや八ツ橋のお菓子をいただいきながら、古代への思いを深くします。
心からお礼申し上げます。