縄文人はどんな民族?遺伝子からやさしく解説

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こんにちは!yurinです。

7月の最後の日曜日は古代史日和の勉強会でした。

この日は、第2回目の縄文勉強会です。

縄文時代にまでさかのぼることで、弥生時代~古墳時代さらにその後の日本の歴史まで見えてくるものがあるようです。

 

第1回の勉強会の後、縄文人はどのような民族で、どのような言語を話していたのか?という質問が上がりました。

確かにそのあたりをあいまいにして縄文人を語っても、空をつかむような絵空事になってしまいそうです^^

それで、今回はまずそこからお話ししました。

生物遺伝子学からの縄文人のアイデンティがわかる

これまでも縄文人について、さまざまに論じられてきましたが、幸い、最近の生物遺伝子学の進歩は目覚ましいものがあり、そのあたりも急速に明らかにされつつあります。

ですが、その分野においても、邪馬台国論争のように、同じデータによっても、考察や解釈は分かれているのでした(大汗)

 

明確な古代史像のシナリオを描くには、まだ各国の時代ごとのデータもサンプルも不足していて、決して十分でなく、その状況でそれぞれ考察がなされています。

そうした中でも最近の人類学や遺伝子学者の先生の本を参考にして考えてみることにしました。

 

母系で見る

ミトコンドリアDNA(母系の系譜)の解析によれば、ホモサピエンスの人類は、20万年前に、はるかアフリカで誕生したことが判明しています。

その後人類は、10万年前にアフリカを出て、5~6万年前に世界各地に拡散したのです。

そして、ユーラシア大陸のシベリア経由の北ルートで、あるいは東南アジアへ南下した南ルートから、4万年から3万5千年前に、日本列島へ到達したのでした(大拍手)

 

父系で見る

一方、より新しいY染色体(父系の系譜)の分支形態から推定される拡散ルートは、ミトコンドリアDNAによる拡散経路と大筋で一致しますが、細部では異なる部分があります。

たとえばアレクサドロス大王の遠征やチンギスハンの遠征では、男性を主とする移動です。

そして彼らの移動によって、その後の歴史が作られて、遺伝子にも痕跡を残すのです。

 

日本では、幕末の薩摩・長州の人々の江戸への移動は、男性だけのものでしたね。

このように母系と父系の移動の差によって、遺伝子の拡散ルートにも相違が生じるようです。

 

日本へのルートは3つ

アフリカを出た人々が、日本列島へたどりつくまでのシナリオの考察については諸説ありますが、日本列島への流入は、大きく3方面からになります。

  1. シベリアを経て北方の樺太方面から
  2. 南方のスンダランド・フィリピン諸島を北上し台湾から海を越えて沖縄へ
  3. 中国江南・朝鮮半島から

それぞれ日本列島にたどりついた人々がいたのでした。

 

遺伝子学とは関係なく、日本人の源郷さがしの旅を続ける人たちもいます。

ある人は、旧石器を追ってアムール川の流域で、日本人の源郷を感じますし、ある人は、船に乗って東南アジアの島々で源郷を感じるのです。

そして中国南部の山中の棚田を見て、源郷を感じる人もいます。

こうしたことも、私たちの先祖が北から南から西からと、それぞれの地から、日本列島にたどり着いたもの、とはるか遠大な旅へと想いを馳せると、ナットクできますね。

縄文人は地域ごとに多様性

現代の本土の日本人集団は、母系では、朝鮮半島や中国東北部の集団とは、類似したミトコンドリアDNAの構成をしています。(篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)』)。

ところが、父系のY染色体DNAハブログループ頻度はこれらの地域とは大きく異なった構成になっています!

 

それは、その後の各国の歴史時代を通じて、その差がもたらされたとものと考えられます。

そのシナリオの考察は、各人の歴史考証に委ねられているのです。

はるか太古に別々のルートによって、時代も違って、日本列島にたどりつた先祖たちでした。

 

縄文人のミトコンドリアDNAのハブログループの頻度をみると、北海道から沖縄まで日本列島各地の縄文人に共通する遺伝子があります(篠田謙一『日本人になった祖先たち』)。

 

一方で地域による相違もあるようです。

関東縄文人と北海道縄文人の違いがみられます。

関東縄文人の方が、さまざまなハブログループで構成され、現代の本土日本人に似ています。

 

残念ながら、今の段階では、本土の西日本の縄文人のデータがありません。

東日本と比較すると、西日本の縄文人の人口も遺跡も少なく、DNAのサンプルは得られないようです。

 

今後は、九州・中国地方など西日本の縄文人の新たなデータに注目したいところです。

ひとえに縄文人といっても、共通の遺伝子はありながら、地域ごとの多様性がみられるのです。

1万年の間に、少しずつ交流の範囲と通婚圏を広げて、日本人としての共通のアイデンティティーを築いていったものとみられます。

出雲集団と青森集団は血のつながりが濃い?

さらに近年では核DNA(細胞核内の両親の遺伝子情報)の解析もなされ、個人の詳細な遺伝情報を得ることができるようになっています。

各国の現代人の核DNAを比較して、他集団との近縁関係を知ることが可能です。

それによると、本土日本人は北京集団とは明確に区別され、琉球集団(沖縄地方)とも区別される、というものです(篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』)。

 

また出雲集団(島根県)と青森県の集団の近縁関係も論じられています(斎藤成也『核DNA解析でたどる 日本人の源流』)。

斎藤成也氏の『日本人の源流』については、安本先生の『先代旧事本紀』の講座で、その著作の要旨を発表してくださった方がいらして内容を知りました。

そのときの安本先生のコメントの主旨は「サンプルが少ないんじゃないか?」というものでした。

確かに、今の段階で特定のサンプルの核DNAを比較した分析には目を見張りますが、そこにいたる過程が、各人の考察に委ねられるところがあります。

人類の歴史を語るには、さらに各時代各地域の多くのサンプルが必要で、時間も必要とみられます。

 

最新の科学成果には目を向けつつも、やはり地道な古典や考古学の考証の積み重ねが大切と思います。

科学・古典・考古学が呼応し合って、歴史も明らかにされるのでしょう。

健やかな子どもの成長を祈る切実な思い

「縄文人は文字を残さなかったので、さまざまなものの意味の本当のところはわからないのです。各自で思いを巡らせてもらえれば……」

とは、博物館の学芸員の方の言葉でした。

 

これは何かしら?どういう意味があるのかしら?……など疑問は尽きないのです。

しばし土器や土偶を見つめて、縄文人の心に寄り添ってみよう、と思索を巡らすところに、縄文への扉は開かれるのでした。


(岡谷考古館にて)

出産や子孫繁栄への願いを込めた土偶や土器、再生を願う埋葬法などからは、縄文人の切実な思いが心に響いてくるのです。

丈夫で健やかな子供を生んで成長させるには、近くの集落での婚姻を繰り返すだけでなく、なるべく別の集団との通婚をした方がいい、と年長者の経験測から悟っていたのではないでしょうか?

 

人口が極端に少ない古代において、限定的な通婚圏では、特定のウィルスキャリアの残存率も高くなっていくようです。

健やかな子供の成長という切実な思いから、身近な集団から離れて、遠方の人々と通婚し、生まれ育った土地の見慣れた土器を製作したのではないかと思うのです。

こうして土器のデザインや製作技術は、広がっていったものと考えています。

 

各地方ごとに共通性のある土器の様式や模様は、通婚圏の広がりを裏付けたものではないでしょうか?

そうした過程を経て、1万年に及ぶ縄文文化を見事に開花させた縄文人の遺伝子は、現在の私たちにまでしっかり継承されています。

美しく精巧な土器の芸術性、心に迫る土偶への祈り、丹念に根気を込めた石器作り……そうした縄文人の感性や精神を、現在の私たちの血の中にしっかり継承しているのは確かです。

 

つづく

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