神武天皇についてサイコーの講演会【1】「歴史の真実はシンプルなもの」のつづきです。
4.古典を補い合う国宝『海部氏勘注系図』
河村先生の講演では、神武天皇の東征に先だって、筑紫の国から東征していた饒速日命(にぎはやひのみこと)との確執を解き明かすものでした。
国宝『籠(この)神社海部氏勘注(あまべしかんちゅう)系図』」は、上代の古典の記述を相互に補い合って、宗像三女神、大国主命、饒速日命(にぎはやひのみこと)について貴重な情報を記します。
少しは矛盾があっても、そこにこそ真実味があり、けれどもその根幹は古典・系図・地元の神社伝承は一致しているのです。
神武天皇の東征の大きなヒントを提示しています。
そして、筑紫勢力と出雲勢力の確執が見えてきます。
ですが、日本家系図学会会長の宝賀氏やノンフィクション作家の足立氏は、この貴重な系図も、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』の初期天皇系図も否定して、新たな系図を「推定」します。
安本先生は、足立氏の講演会の次の会で、足立氏が提出した系図資料を、再度掲載してくださいました。
ただただ驚愕の系図です!
これでは天皇以外の皇族は、『古事記』『日本書紀』にある記事内容と矛盾してしまいます。
地元の神社伝承とも適合しないことばかり。
『古事記』『日本書紀』を否定する人々にありがちなのですが、「天皇」だけにつじつまをあわせて、うまく説明できた!と勘違いしてしまうようです。
豊富に記される、他の皇族のことを全く軽く見てしまっています。
たとえば景行天皇の母の、四道将軍の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)も、わけがわからない人物になってしまいます。
垂仁天皇の兄弟の豊城入彦(とよきいりひこのみこと)、景行天皇の兄弟の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)などなど………次々と、古典の内容と矛盾が生じてしまいます(泣)
天皇の世代数に合わせて!天皇家一族の系図を「造作」(推定)したもようで、天皇の妃や兄弟、皇子などの、古典の内容はメチャクチャです(大泣)
……ここまでくると、うすうす、宝賀氏の「推定系図」の方が怪しいのでは?
そもそも系図を推定する必要がありますか?
「系図の推定」など、それこそ「造作」なのでは?
さらに「天照大神は男神」とまで言います。
「天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の二柱の神さまが、天の安の河の誓約(うけい)をして、お生まれになった五男三女」
とあるのですから、男女のペアとして記されているのは明らかですが……
宗像大社でも天照大神を、三女神の母神として、とらえているのです。
そのような古典の文献考証にも、現地の資料にももとづかない、歴史学っていったい何かしら?
「古典を軽く見て歴史にアプローチする」と、行き着くところは、モグラたたきのつじつま合わせ的な古代史像になってしまうように思われてなりません(泣)
……とは思うものの、凡人は自信がなく揺らぐこともあるわけです(大汗)
5.筑紫の霊峰「英彦山(ひこさん)」の神武天皇伝承
『古事記』の序文で、天武天皇が「諸家の系図は虚偽を加えている。……偽りを改めて真実を定めて、後代に伝えよう」と、国史の編纂を進めたことが記されます。
そうした意図のもとに、編纂された『古事記』『日本書紀』こそ信頼すべき資料ではないしょうか。
そうしたおりに、まさに安本先生、河村先生の古典にもとづいた歴史認識をお伺いできて、これほど有難くスッキリしたことはなかったです(拝)
お二人の先生ともに誰にもできて理解できる「再現性」というものを重要視しておられました。
小保方氏のように、特定の人だけが再現できるのでなく。
河村先生の「北部九州の神武天皇伝承」は、見事でした。
地道なフィールドワークによって、『古事記』『日本書紀』の神武天皇の記述を補うものです。
河村先生以外の誰でもフィールドワークすれば、「このようなものがある」ということが「再現できる」のです。
『古事記』では、
そこより(豊国の宇佐)うつりて、筑紫の岡田の宮に一年(ひととせ)坐(ま)しき
『日本書紀』では、
(神武)天皇、筑紫国の岡水門(おかのみなと)に至りたまう
というシンプル記事なのですが、地元の神社伝承からは、神武天皇が筑紫の国を丹念に巡行して、先祖の神々を祭り、求心力を高めたことが伺えます。
こうして次第に兵も集結してきたのでした。
「筑紫の岡田の宮」ゆかりの、北九州市の岡田神社、一宮神社もあります。
岡田の宮
一宮神社
一宮神社 神武天皇ゆかりの神籬(ひもろぎ)と磐境(いわさか)
岡水門(おかのみなと)ゆかりの、岡湊(おかみなと)神社(遠賀郡岡垣町)もあります。
このブログでも記した「飯塚市の熊野神社」も神武天皇のゆかりの巡幸地です。
熊野神社の立岩
さらに神武天皇の母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)は、もともと北部九州出身の安曇氏の一族なので、神武天皇に随行したそうです。
筑紫の中心部の宝満山の麓の大野城付近に居を定めて、東征の成就を願って、この地で没して祭られています。
宝満山の宝満宮竈(かまど)神社に祭られて崇敬を集めています。
神武天皇は筑紫の人々の人心を掌握して、いよいよ大和を目指すことになるのです。
そして神武天皇の筑紫巡行に先立つ神々の一柱として、英彦山(ひこさん)を仰ぐ信仰と重なる高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の姿も見えてきたのです。
英彦山神宮奉幣殿
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫(よろずはたとよあきつしひめ)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子(みこ)の、天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)と結婚して、天孫降臨した、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が生まれます。
それで皇室の先祖は、「天孫(あめみま=天照大神の子孫)」とも「皇孫(すめみま=高皇産霊尊の子孫)」ともいわれます。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、宮中に祭られる大切な皇室の祖先神なのです。
その高皇産霊尊の信仰とともに、筑紫の霊峰英彦山(ひこさん)がありました。
皇統に受け継がれる「ひこ」は、日の神の御子(みこ)の意味で、その高貴な名称とゆかりの深い山が英彦山(ひこさん)です。
彦山川
6.台風一過の晴天とともに
安本先生の説を補強しつつ、最新の研究成果をお伺いすることができました。堂々と自説を主張しつつ、笑いもある暖かな雰囲気でした。
安本先生、終始笑顔。
おかげさまで、河村先生の講演は好評で、講演会の後も、駅のホーム、電車の中までも、駆け寄って声をかけてくださる方々がいるほどでした(拍手)
河村先生をお見送りして、お別れする時に
「なんだか、邪馬台国の会は、自分のホームみたいだったよ。ふるさとに戻ってきたみたいだ。
台風が直撃して、歴史的な衆議院選挙の日に、神武天皇を話すことができて本当に幸せだと思ったよ(微笑)」
と、おっしゃってくださいました。
確かに、福岡で河村先生と何度かご一緒に講演させていただいた時も、今回ほどの皆さんの即座の暖かい反響は見たことがなかったように思います。
東京方面の方々は、物怖(ものお)じせずに、ストレート、女性陣にも取り囲まれて、河村先生もウェルカムなお人柄で……
邪馬台国の会の特別講演でも、これほどの皆さんの好意的な反応は見たことがなかったかもしれないです。
森浩一先生の最後のご講演以来でしょうか。
やはり安本先生の終始一貫した学説と、その学説に心から共鳴する先生の講演こそ、皆さんが望んで心待ちにしていたものだ、と思いを深くしました(大涙)
台風が過ぎ去ると、東京地方では久しぶりの晴天が訪れました。清々しく青い空が見えます。