卑弥呼から清和源氏の守護神まで日本の歴史を彩る神功皇后

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こんにちは!yurinです。

先週末、古代史日和勉強会では、神功皇后研究第一任者の河村哲夫先生をお迎えして、お話しをお伺いしました。

東京(池袋)で開催している勉強会ですが、今回は福岡や兵庫からも参加してくださり、今までで一番大きな会場です。

先生のお話しから、さすがに神功皇后は、日本歴史を彩る偉大な女性を感じました。

筑紫の人々から絶大な支持集める神功皇后

河村先生は、もともと『古事記』『日本書紀』は、信頼性のない創作物語と思っていたそうです。

……ですが仕事勤めの週末、自宅にゴロゴロしていると、家の人にうっとおしく思われるので^^、散歩がてら近くの神社を訪れるようになったとのこと。

すると、そこには「神功皇后」が祭られていて、簡単に由緒が記されています。

そしてまた新たな神社を訪れます。神功皇后へのとびらは開かれました!

 

あちこちに神功皇后ゆかりの神社があることがわかってきます。

しかも一つの神社を訪れると、そこからヒントを得て、さらに次の神社へ……という調子です。

こうして次々に神功皇后の神社や伝承地をたどると、北部九州だけで3000ヵ所余りも知られてきたのでした!

 

インターネットが普及して、なんと神功皇后の由緒地は1万ヵ所にもなるかもしれない、そうです\(^o^)/

神社の由緒や人々の伝承は『古事記』『日本書紀』の記事を補うものでこそあれ、矛盾することはありませんでした(大拍手)

 

「神功皇后の足跡は一筆で描けました。それぞれの人生もまた一筆で描けるものですね」

と河村先生はおっしゃいます。

私もまた日本武尊の足跡を追いまして、まったく同じ思いです。

そうなると『古事記』『日本書紀』の一字一句、ひとつひとつの地名が大切に思えてきて、感動すら覚えるのです。

 

「庶民が見たこともない衣装や飾りを身に着けているんですよ。まさしくテレビのない時代に、突如現れたスターですね!」

「……そして神功皇后は、えっちらおっちら輿(こし)を男性にかつがせて、ゆったり指図しているんです。すごい女性と思ったし、女性のパワーも感じたでしょうね^^」

 

神功皇后は高貴で美しく、そして勇敢に国内外への戦へ挑みます。

男性陣が皇后についていってしまうのですから、本当にたいした女性です!


「神功皇后の足跡」川崎日香浬氏

卑弥呼はだれ?に挑んだ『日本書紀』編者

『魏志倭人伝』の「卑弥呼」はだれか?今なお決着のつかない難問に、最初に挑んだのは『日本書紀』編者でした!

『日本書紀』の編纂者たちは、中国の『魏志倭人伝』を読んで、わが国に伝わる資料と向き合いました。

……そして中国の王朝が「親魏倭王」と認めたほどの「女王卑弥呼は、神功皇后しかいない」と考えたのです。

 

そして資料に伝わる干支の年代(十干と十二支※を組み合わせた、二文字で表す古代の年代法。120年で一回りする)を、一回り(120年)早く解釈して、『日本書紀』に取り入れたのであろう……ということが指摘されています。

(※十干=甲乙丙丁戊己庚辛壬癸・十二支=子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)

 

『日本書紀』には、百済の近肖古王(きんしょうこおう)の死去年・近仇王(きんきゅうおう)の即位年、百済の枕流王(ちんりゅうおう)の即位年が記されます。

(神功皇后摂政)55年(255)、百済の肖古王、薨(みう)せぬ(お亡くなりになられた)。56年(256)、百済の王子貴須(きす=近仇王)、立ちて王となる

(神功皇后摂政)65年、百済の枕流王(ちんりゅうおう)、薨(みう)せぬ(お亡くなりになられた)

この『日本書紀』の年代にプラス120年すると、朝鮮の史書の『三国史記』に一致します!

  三国志(百済) 日本書紀 日本書紀+120年
近肖古王死去 375年 255年死去 375年
近仇王即位   256年即位 376年
枕流王 384年 264年 384年

                                 

中国の『魏志倭人伝』の卑弥呼=神功皇后と考えたのです。

そこから『日本書紀』の年代は誤差が生じてしまいました。

年代の信頼性と記事内容の信頼性は別に考える

西暦が伝わらず、「干支」で時代を伝える古代のできごとの伝承を、海外の史書と合わせて懸命に考察したのですが、後世の人々を混乱させてしまったようです。

今なお『日本書紀』の記事内容まで疑心暗鬼を生む原因になっています。

……ですが、ここはやはり年代の信頼性と記事内容の信頼性は、分けて考察し評価するべきと考えます。

 

「自分の家に系図が実際に伝わっていても、それではその人は、西暦何年の人ですか?……と聞かれると、あいまいになってしまう場合が多いのではないかな?」

と、河村先生。

古代史学者の安本先生もまた「場所の記憶と比べると、年月日の記憶は忘れやすいものです」と、おっしゃいますが、まさしくそのように思われます。

 

『日本書紀』の神功皇后の記事の年月日に関する記事は、誤っていても、そのほかの神功皇后に関する記事は、とるべきところが多いのです!

河村先生から、北部九州の神功皇后に関する伝承を伺うにつけても、なんと『古事記』「日本書紀』は、豊富な伝承を伝えていることかと、感動を覚えます(大拍手)

鎮懐石八幡宮のご神体は清和源氏の守護神になる!

福岡からいらっしゃる先生の勉強会なので、時間のムダを省くため、あらかじめ質問をうかがい、河村先生へお知らせしていました。

それについて河村先生はご講義の中だけでなく、40枚に及ぶ資料の中で、ご丁寧に文章で解答してくださっています。

  • 神功皇后の出身、出自、出世、家系、生い立ち
  • 武内宿禰との関係
  • 大阪・兵庫・下関・博多の住吉大社との関係
  • 王宮の場所
  • 出陣の九州北部の痕跡
  • じっさいに伝承されている名称
  • 神功皇后の即位は
  • 斉明天皇の九州出兵の転化では
  • 鎮懐石八幡宮

……などなどです。

解答については、おりにふれてブログの中で、ふれてみたいと思います。

 

その中で、このブログでもとりあげました「鎮懐石八幡宮のご神体」について取り上げます。

清和源氏の守護神は、八幡大菩薩、すなわち神功皇后の皇子の応神天皇と仏教の菩薩信仰が習合したものです。

第56代清和天皇(881~850)の子孫、清和源氏の祖と仰がれる八幡太郎の源義家(1039~1106)は、源頼朝・足利尊氏の先祖です。

鎮守府将軍、陸奥守(むつのかみ)に任じられた父の源頼義(988~1075)に従い、奥州の安倍氏の乱を平定します(前9年の役1051~1062)。

 

さらに出羽の清原氏の内乱から始まった奥羽地方の平定(後3年の役1087~1083年)を成し遂げて清和源氏の東国の基盤を確固たるものにしたのです。

後の時代から見れば、勝利の見えた戦いのように思われますが、初めて奥羽平定に向かう源義家は、相当な覚悟を強いられたものとみられます。

そして奥羽平定のために、応神天皇の母の神功皇后ゆかりの鎮懐石(ちんかいせき)を守護神として、拝借したのでした!

 

その守護神の鎮懐石を、子の義隆に授けて、子孫が大切にお祭りしてきたという伝承が、長野市の蚊田八幡宮にあります。

ブログに記したのでご覧いただければ幸いです。

 

河村先生のお話しによると、その鎮懐石は3つあって、もともとの糸島市の鎮懐石八幡宮、壱岐(いき)市の月読神社、そして京都市の松尾大社摂社の月読神社に置かれたそうです。

京都と壱岐のどちらの神社も、第34代舒明天皇の時代に、奉納されたと伝えられます。

 

舒明天皇といえば「おきながたらしひろぬかのすめらみこと」という和風諡号をもちます。

舒明天皇は母方の系譜に「息長(おきなが)氏」をもち、神功皇后を誇りと仰ぐ一族の出身なのです。

継体天皇、斉明天皇、天智天皇そして現在の今上天皇まで続く系譜です。

 

果たして八幡太郎義家が、奥羽平定の守護神として持ち出した鎮懐石は、鎮懐石八幡宮のご神体だったのでしょうか。

今は鎮懐石八幡宮の石は、盗まれ紛失してしまっているそうです。

 

「鎮懐石八幡宮のある海岸は、夕陽の美しいベストスポットです。恋人たちもよく訪れる神社で、壱岐の方まで見渡せます。」

と河村先生。

あいにく私が参拝した時は曇り空でしたので、夕陽の沈む日に訪れたい、と思いを馳せます。

……『魏志倭人伝』の卑弥呼~継体天皇~斉明天皇、そして清和源氏の源義家まで、神功皇后から日本の歴史の考察は広がります。

河村先生のユニークでテンポの速い語り口、豊富な資料を用いて、あっという間の2時間でした。

週末の散歩から始まった神功皇后でしたが、そのはかりしれない魅力にとりつかれたのも、さもありなん、と思われるほどの日本の歴史を彩る偉大な皇后、それが神功皇后です^^

 

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