こんにちは!yurinです。
先週末には、今年最後の古代史日和勉強会「饒速日尊(にぎはやひのみこと)と銅鐸」でした。
たくさんの方々にお申込みいただきながら、全員の方々に参加していただけず恐縮しています。
天皇誕生日、クリスマスが押し迫った年末に、お集まりいただきましたこと、心からお礼申し上げます。
キックオフパーティーへのご参加もありがとうございました。
目次
邪馬台国~縄文時代~饒速日尊と銅鐸へ
今年の勉強会は、参加メンバーのご要望を伺いつつ、邪馬台国 ⇒ 縄文時代 ⇒ 饒速日尊と銅鐸……と、何ともバラエティに富んで!お話しさせていただきました。
古代史の頂点を目指すにはさまざまな方法があると思いますが、一つ一つのアイテムを完璧にして進むよりも、まずおぼろげでも全体像をつかむ方がいい、という考えからです。
日本の古典の持つ幅広い古代史アイテムから、総合的に矛盾の少ない古代像の構築です。
もともとは中国文献の『魏志倭人伝』の邪馬台国の女王の卑弥呼と、『古事記』『日本書紀』の天照大神(あまてらすおおみかみ)は同一人物という仮説が始まりです。
そして『古事記』『日本書紀』の天皇のお名前の「ぬなかわ」から縄文ヒスイに入りました。
さらに『古事記』神話の出雲の大国主命の国譲りから、その御子がたどりついたという「洲羽(すわ)の海」によって、諏訪大社や黒曜石の歴史に入り込んだのでした!
ついに『先代旧事本紀』「天神本紀(あまつかみのもとつふみ)」から、饒速日尊とともに下った32神と物部25部の由緒地をたどるうちに、銅鐸出土地にたどりつくのでした。
銅鐸といえば、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から、まず「出雲」との関わりを考えるのですが、それと同様に饒速日尊(にぎはやひのみこと)との関わりを考えることになりました。
銅鐸出土地の近くに饒速日尊と下った天御影命
滋賀県野洲市大岩山遺跡は、島根県の加茂岩倉遺跡で銅鐸が出土するまでは、1か所での銅鐸の最多出土地(24個)でした。
この出土地近くには式内社御上(みかみ)神社があります。
饒速日尊とともに下った32神の天御影命(あめのみかげのみこと)をお祭りしています。
天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)で生まれた五男三女の中の、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の御子とされます。
この神さまは『古事記』『日本書紀』にはいっさいでてこないのですが、『先代旧事本紀』の巻3の「天神本紀(あまつかみのもとつふみ)」に出てくるのです。
巻10の「国造本紀(くのみやつこのもとつふみ)」にもでてきます。
神武天皇の東遷に功績があった神として、凡河内(おおしこうち)の国造(くのみやつこ)に委任されています。
大阪湾から淀川水系、琵琶湖方面まで、広く開拓統治を任された一族の先祖とされます。
銅鐸出土地の野洲(やす)市は、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の野洲川の下流域です。
淀川の水源が琵琶湖なので、琵琶湖に注ぐ河川は、淀川水系ということになります。
野洲川は、神話で高天の原を流れる「安河(やすのかわ)」と、同じ名称です。
それで、この地こそ高天の原!という説もあるほどです。
日本全国を見渡すと、九州と畿内にかかわらず、同じ地名・類似地名は、実にたくさんあります。(「やす川」は、福岡県と滋賀県の2ヵ所)。
縄文~弥生時代の人々のダイナミックな移動が見えてくると、同じ地名でも、果たしてどの地名がもともとの地名なのか?……考えさせられることは、でてきますね^^
『古事記』で天津彦根命(あまつひこねのみこと)は山代の国造・凡河内の国造の先祖とある記述と符合します。
銅鐸祭祀を採用しなかった神武天皇
銅鐸は畿内大和や出雲方面を中心に広がっていきましたが、北部九州方面から中国・四国地方の西部は普及しません。
銅鐸は『古事記』『日本書紀』の記述にいっさい記されません。
こうしたことから神武天皇は、青銅器の中で、出雲氏族や饒速日尊(にぎはやひのみこと)の政権で盛んであった銅鐸の祭祀を採用しなかったとみられます。
銅鐸は、船団を率いての移動には、身軽でないようです。
御上神社の周辺には、出雲氏族の素戔嗚尊・稲田姫を祭る大笹原神社(野洲市大篠原)があります。
入母屋造りの本殿は国宝で、御上神社と同じ造り(こちらも国宝)です。
銅鐸出土地の地名は、野洲市小篠原大岩山です。
「大笹原(おおささはら)」「小篠原(こしのはら)」は、ササの生い茂った原として、古い地名の関連性があります。
さらにこの地に隣接する蒲生郡竜王町には「鏡神社」があり、天日槍(あめのひぼこ)に天津彦根命・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を合わせ祭ります。
新羅の工人が鏡や須恵器を製作したとされます。
万葉集ゆかりの額田王や鏡王女の由緒を伝え、後の時代に源義経が、この地で元服したとされます。
大岩山という多量の銅鐸出土地周辺の神々の祭られ方から、
出雲氏族 ⇒ 饒速日尊 ⇒ 神武天皇
という支配者層の交代の影響を読み取るべきではないでしょうか。
北部九州で銅鐸の出土は吉野ヶ里遺跡だけの理由
北部九州には、初期銅鐸の鋳型の石器が、複数出土していながら、実際に銅鐸が出土しているのは、吉野ヶ里遺跡のただ1か所です。
出土状況
北部九州では畿内より早い時期に、銅鐸は、鏡や矛などに鋳直されたとみられるのです。
そして『古事記』の第9代の開化天皇の段の記述からは、天御陰(影)命(あめのみかげのみこと)の子孫からは、息長水依姫(おきながのみずよりひめ)、すなわち後の神功皇后=息長足姫(おきながたらしひめ)に通じる系譜が輩出することは、注目すべきことです。
以上のことは、饒速日尊とともに下った32神と物部25部にかかわる一つの例ですが、これらの人々(神々)の丹念な探究を通じて、銅鐸の謎は解明していくように思われます。