特別展「縄文ー1万年の美の鼓動」のブログのつづきです。
山鹿貝塚の見事な鹿の角の飾りでしたが、鹿の角は釣り針などの漁労具にも使用されました。
「鹿」は狩猟採集生活を基盤とする縄文人と、とても密接な動物でした。
現在でも諏訪大社の神事、静岡や愛知県の山間部の神社の神事に登場します。
福岡県の玄界灘に浮かぶ志賀島は、阿曇氏の本貫地とされ、志賀海(しかうみ、しかわたつみ)神社があります。
そこではなんと1万本の鹿の角が蔵に収納されているそうです。
縄文人は鹿を食するだけでなく、鹿の角で精巧な釣り針を作ったり、優美な装飾品を作ったりしたのでした。
寒冷な旧石器時代から、縄文時代へ移行できたのは、気候の温暖化の恩恵です。
海水面が上昇する、いわゆる「縄文海進」によって、内湾や複雑に入り組んだ入江が形成され、魚介類の生息も豊かになったのです。
縄文人は、貝塚を形成するほどの海産資源を利用するようになりました。
出土する膨大な漁労具もまた、縄文人の知恵と根気を証明するものです。
この段階で現代と変わらない形の漁労具の製作を成し遂げていたのでした!
釣り針の精巧さは秀逸です。
魚に打ち付けて、たぐりよせる漁法で使用される「銛(もり)」の形状も機能も見事です。
海幸・山幸神話を想起する釣り針
『古事記』には「海幸・山幸」の神話があります。
海と山の狩猟と漁労を交代して、狩をすることになったのですが、運悪く、山幸彦は、慣れない海で釣針を失くしてしまいます。
怒った海幸彦は、山幸彦がどんなにたくさんの釣針をかわりに作っても、許そうとしませんでした。
……海幸彦は、なんて怒りっぽく、心の狭い人間かしら?と、反発してしまうのですが……
こうして丹精こめた精巧な鹿の角の釣針を眺めると、この釣り針の製作にこめられた時間や精神の膨大さがひしひしと感じられてきます。
……すると、この釣り針を失くした、海幸彦の悲しみと怒りも、共感できることがでてきます。
古代人にとって、実に大切な釣り針だったのでしょう。