こんにちは!yurinです。
神武東遷での神武天皇軍の勝利は、縄文海人族を継承する海洋民族の伝統の勝利でもありました。
目次
『日本書紀』からもわかる神武天皇の海軍力
神武天皇の一族は、母方が「海神(わたつみ)」であることを誇りにしています。
神武天皇の勝利は「海軍力」ではないでしょうか。
縄文海人(あま)族を継承する、海洋民族の伝統のパワーです。
『日本書紀』から神武天皇の海軍の記事をいくつかを取り出してみます。
天皇、親(みずか)ら諸(もろもろ)の皇子、舟師(みふねいくさ)を率いて東(ひがし)を征(う)ちたまう
(天皇は自(みずか)ら、皇子たち、船団を率いて東征に立たれました)
これを高嶋宮(たかしまのみや)という。
三年(みとせ)積(ふ)る間に、舟檝(ふね)をそろえ、兵食(かて)を蓄(そな)えて、まさに一(ひと)たび挙(あ)げて天下(あめのした)を平(む)けむと欲(おもほ)す
(これを高嶋の宮(広島市付近)という。
3年間、船団を整えて、兵士と兵糧の準備をして、まさしく一気に天下を平定しようとなされた)
高嶋宮付近の瀬戸内海
皇師(みいくさ)ついに東にゆく。
舳艫(ともえ)相(あい)接(つ)げり……河内国(かわちのくに)の草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩(しらかた)の津に至る
(皇軍はついに東へ向かった。
船の舳(へ)さきは、次々と同じ方向へ並んだ……大阪府の東大阪市日下町の港に到着した)
しかし背後に物部氏の大勢力をもつ長髄彦の軍によって、大和入りは果たせず、撤退を余儀なくされます。
紀伊半島の南端の熊野方面から、太陽の力を得て、大和入りを目指します。
熊野灘では暴風に遭(あ)い難渋します。
すると今度は、稲飯命(いなひのみこと)・三毛入野命(みけいりのみこと)という二人の兄が、入水して海を鎮めるのでした。
「ああ、吾(わ)が祖(みおや)は天神(あまつかみ)、母は海神(わたつみ)なり」
(ああ、私の先祖は天つ神、母方は海神(わたつみ)なのだ)
「我(わ)が母(いろは)および姨(おば)は、並びにこれ海神(わたつみ)なり」
(私の母、祖母もまた海神(わたつみ)なのだ)
二人の兄たちの「海神(わたつみ)」としての誇りの言葉も記されています。
なぜ饒速日命とともに下った人々が、分裂して神武天皇についたのか?
その理由はいろいろ考えられるところです。
もちろん神武天皇の血筋や人格がふさわしいのは、あったでしょう。
そのほかに理由の一つとしてあげるなら、縄文時代以来の海洋民族の伝統をもった人々の力ではないでしょうか。
神武天皇、天香語山命(高倉下)、天道根命に通じるものです。
銅鐸で象徴される、弥生農耕社会に重きをおくだけでなく、海洋民族としての力も誇示した戦争といえるのかもしれません。
はるか遠い距離をいとわない遷都、船団による移動。
それはまさしく、当初の皇室の伝統を継承する海神(わたつみ)という海洋民族の誇りが、濃厚な神武天皇の東遷です。
神武天皇の船団を想起する宗像大社みあれ祭の大船団
写真家 藤原新也氏
舅(おじ)の長髄彦を誅殺して神武天皇に帰順する
『先代旧事本紀』「天孫本紀」は記します。
瓊々杵尊(ににぎのみこと)の孫、磐余彦尊(いわれびこのみこと、第1代神武天皇)は天下を治めようとして挙兵し、東征を開始された。
しかし方々でご命令に背いて反逆するものは蜂のように群がり、服従しようとはしなかった。
中州(なかつくに)の豪族の長髄彦(ながすねびこ)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命(うましまちのみこと)を推して君主とし仕えていた。
……軍勢を整えて防戦体勢に入った。天孫の軍勢は連戦に及んだが勝利できなかった。
その時、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は舅(おじ)の謀略には従わなかった。
説得は無理であるとして殺害し、軍勢を率いて帰順した。
長髄彦は、宇摩志麻治命を奉じて神武天皇の軍を阻んで撃退しました。
しかし宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、なんと!舅(おじ=母方のおじ)の長髄彦命を斬って、帰順したのです。
神武天皇は喜んで仰せられました。
「長髄彦……軍勢は勇猛で突き進んでくる。敵として戦えば誰が勝利できようか。
それなのにあえて舅(おじ)の謀略にのらず、軍勢を率いて帰順し、そのおかげでわが官軍は勝利できた。
私はその忠節をうれしく思う。」
と。
霊験あらたかな「韴霊(ふつのみたま)の剣」を授けて大きな勲功に答えた。
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、天つ神の祖先が饒速日尊に授けた、天璽(あまつしるし)の11種(天孫の証しである神宝)を献上した。
天孫は大いに喜んで、格別に寵愛なされることが増した。
磐余彦尊(いわれびこのみこと)は、橿原の宮(橿原市畝傍山東南付近)に都を定めた、初めて皇位につかれた。
……姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)を尊んで皇后とした。
11月1日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、初めて瑞の神宝をお祭りして、帝(みかど)と后(きさき)のために差し出した。
御魂(みたま)を鎮め、寿命の長かれ、とお祈りする「鎮魂(みたましずめ)の祭り」はここから始まったのであろうか(石上神宮の祭礼。十種神宝をもって呪文を唱え、玉の緒を結んで長寿を祈る)
石上神宮
「身近にいて神殿の中に常駐して仕えるように」
それで足尼(すくね)(宿禰の古い用字。天皇の殿中に宿る重臣)と名づけた。足尼(すくね)の名はここから始まった。
このように『先代旧事本紀』は、記しています。
宇摩志麻治命は、辛く屈辱の選択だったとみられます。
母の御炊屋姫(みかしきやひめ)は、この時生きていたのでしょうか。
どのような気持ちで行動したのかなど、その後のことを含めていっさいわかりません。
宇摩志麻治命こと可美真手命(うましまてのみこと)像
神剣「布都(ふつ)の御魂(みたま)を抱く」
東京都中央区浜離宮庭園にて
身内を失った怨念を乗り越えて和合する二人が、日本史を開く
息子が兄を斬る、そうした悲劇の中で、息子は敵方の神武天皇に帰順したのです(大汗)
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)にとって、身内を斬るという大変な覚悟の決断でした。
父の饒速日尊の死後、痛々しいほどの分裂を引き起こしてしまい、己の無力さを痛感したのではないでしょうか。
そして、神武天皇と自分と倭国を、冷静に見つめる賢明さを持ち合わせていました。
あえていえば、長髄彦を政権の表舞台から去らせて、地方へ逃したかもしれません……
殺したことにして、地方で生きていることもしばしばありますから……
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、父から譲り受けた神宝も差し出して、神武天皇・皇后のために祈りを捧げました。
それもまた大きな屈辱を乗り越えてのものです。
一方の神武天皇も、よくぞ兄を失った怨念を乗り越えたものです。
ふつうに考えれば、いくら帰順しても許せるものでしょうか。
……歴代の天皇になられた方の身内が、敵と戦い、矢に当たってなくなってしまうなど、空前絶後のできごとです。
ですが、神武天皇は許しました。
「このまま戦っても勝利できるだろうか」というほどの劣勢の状況を冷静に認識して、帰順した敵を許し、信頼して寵臣としたのです。
兄を殺した敵を信頼して寵臣にするなど、これもまたよほどの覚悟です。ここに日本の歴史があります。
これとは正反対に「徹底的に一族を滅ぼすまで戦う」―それこそが、世界史や日本の戦国史でしばしばみられる歴史です。
しかし滅亡させたと思いこんだ一族も、その意に反して、必ず生き残ったものがでてきます。
そして何十年、何百年たっても、世代を超えて復讐の心はやまないのです。
その「復讐心の連鎖」こそが、世界史の戦争の歴史のようにも見受けられます。
……しかしその一方で、『先代旧事本紀』では日本の歴史は和合によって開かれた、と書かれています。
ノーベル文学賞のカズオ・イシグロ氏は、
「何を忘れて、何を覚えているか。そして忘れたことをいつ思い出すのか?その兼ね合いこそが、民主的国家を築くヒントになる」
との趣旨を述べていました。
日本の歴史の始まりに、身内を失った痛みや怨念を乗り越えて、和合した神武天皇と宇摩志麻治命。
そこから日本の歴史は開かれたのです。
その古人の和合の歴史を偲ぶと、実に有難いことだったと思うのです。
神武天皇については、敗戦後の混乱の中で、実にさまざまな神武天皇像が提出されています。
その実像にせまるためにも、古典を読んで、由緒地の一つでも二つでも、足を運んでみてはいかかでしょうか。
神武天皇の周囲の人物の足跡も、各地に残っています。
インターネットが普及して、多くの情報が入手できる時代になりました。
古典と素直に向き合って、神武天皇について考えていただけましたらうれしく思います。
古代史日和では、4月に、末永先生の神武天皇についての勉強会を予定しています。
神武天皇について、いったいどのような説があるのか?実在したとしたら、いつの人?
実在説、非実在説、神武東征、それぞれの立場の人の説を考古学の成果をふまえながら考えてみます。
神武天皇について知りたい方、これから考えてみようと思う方……ここから、あなたの神武天皇像を描いてみませんか?
ぜひお気軽にお越しください。
4月29日(日)@池袋
古典や遺物から「神武東遷」を考えていきます。
→終了しました