神武天皇が伝える縄文時代から継承された土器の祭祀

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こんにちは!yurinです。

トップの写真は、神武天皇が出港した宮崎県美々津の海です。

 

さて、一般的に歴史の時代区分により、縄文時代と弥生時代と区切ってしまうことで、すべての文物や精神に連続性が遮断された印象を持ってしまいがちです。

……ですが、実際には縄文時代から弥生時代へ継承された精神や文物はたくさんあったとみられます。

『古事記』『日本書紀』を探究するためには、弥生時代の考古学や大陸方面との関係ばかりで論じるだけでは不十分です。

 

縄文時代の考古学にまで遡り、1万年もの間、四季の豊かな自然と共生した人々の文化にまでおよんで考察を深めた方が、古典の理解も深まるものと考えます。

『古事記』『日本書紀』『万葉集』『先代旧事本紀』『風土記』などの古典を残してくれた先祖はたいしたもので、丹念に読めば縄文文化の面影があるのです\(^0^)/

香具山の土で土器を作り祭祀を行う

一度は長髄彦(ながすねびこ)の軍に撃退されて、大和入りできなかった神武天皇でしたが、紀伊半島を南下して、再度、別ルートで大和を目指すことになります。

高倉下(たかくらじ)や八咫烏(やたがらす)の助けを得て、熊野山中を縦断し、ついに長髄彦との最終決戦に臨みます。

その時に神武天皇は、腹心の椎根津彦(しいねつひこ)を天の香具山へ派遣して、埴土(はにつち)をとり土器を製作して、神々をお祭りしたのでした。

 

『日本書紀』の神武天皇の即位前の記事です。

夢に(みゆめ)に天神(あまつかみ)有(ま)して訓(おし)えまつりて曰(のたま)わく、

(夢に天つ神が現れて、教え諭さとされた。)

 

「天香山(あまのかぐやま)の社(やしろ)の中の土(はに)を取りて、天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造り、併(あわ)せて厳瓮(いつへ)を造りて、天神地神を敬い祭れ。

また厳呪(いつのかしり)をせよ。如此(かくのごとく)せば、虜(あた)自(おの)づから平(む)き伏(したが)いなむ」とのたまう。

(「天の香具山の社(やしろ)の中の土を取り、たくさんの天の平瓮(ひらか=底が平な杯さかずき)を作り、同じように(厳瓮いつへ=神聖な御神酒おみきの甕)を作り、天つ神国つ神を、つつしんでお祭りするように。
そして身を清めて呪詛(じゅそ)しなさい。そうすれば、敵は自然と降伏するでしょう」と仰せられた)

土器を神聖視して、祭祀を施行する神武天皇の姿が描かれます。

 

弥生時代を象徴する遠賀川式土器は、甕・壺・高杯(たかつき)のセットです。

弥生時代の土器は、縄文土器と比べてシンプルで簡素です。

祭祀用よりも、日常の実用品として使用される割合が増えたとみられます。

 

世界的にみると、土器は女性が製作する場合が、多かったようです。

稲作の普及は、女性も農作業の労働に従事することが増えて、装飾性に富む手の込んだ土器製作の時間はなくなってきたのではないでしょうか?

 

縄文時代に後期や晩期になると、弥生土器に近づいた形も見られます。

弥生土器は実用品のように思いがちですが、特別に神々に捧げるお神酒(みき)の甕と、それを注ぐ杯(さかづき)が特別な器であったことがわかります。

煮炊きという日常レベルを超えて、華麗で精巧な装飾性をもつ縄文土器が、特別な祭祀用として、使用されたことに通じます。

ここでは緊急事態であったので、高杯(たかつき)でなく、底が平らな杯を、多数製作して、威信と効果を発揮したようです。

縄文土器から弥生土器に継承される祭祀性

『日本書紀』に描かれる、土器によって祭祀を行う神武天皇の姿は、縄文土器から弥生土器に継承される、土器の祭祀性を伝える貴重な証言といえるでしょう。

吾今まさに厳瓮(いつへ)を以(も)て、丹生(にう)の川に沈めむ。如(も)し魚(いお)大きなり小(ちいさ)しと無く、悉(ふつく)に酔(え)いて流れむこと、譬(たと)えば槇(まき)の葉の浮き流るる猶(ごと)くあらば、吾必ず此の国を定めてむ……」とのたまいて、すなわち瓮(いつへ)を川に沈む。其(そ)の口、下に向けり。

(「私は、今から平底の杯とお神酒(みき)の甕を、丹生の川に沈めよう。もし大小の魚が、ことごとく酒に酔って流れる様子が、たとえば細長い槇(まき)の葉が浮いて流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定できるだろう……」と仰せられて、甕を川に沈めた。その甕の口が下に向いた。)

 

水頃(しばらく)ありて、魚(いお)皆浮き出でて、水の随(まま)に噞喁(あぎと)う。

(しばらくすると魚は水面に浮いて口をパクパク開閉させて流れた。)

 

天皇(すめらみこと)大きに喜びたまいてすなわち、

丹生(にう)の川上の五百箇(いおつ)の真坂樹(まさかき)を抜取(ねこじ)にして、諸神(もろかみたち)を祭(いわ)いたまう。此(これ)より始めて厳瓮(いつへ)の置(おきもの)有(あ)り

(天皇は大変にお喜びになられた。
丹生川の源流の枝葉の生い茂った榊(さかき)の木を彫り出して、もろもろの神々をお祭りなされた。このときから祭事の時に、お神(みき)の甕がお供えされるようになった)

 

おそらく神武天皇が作った土器は、朱色で塗られた赤い土器であったとみられます。

神武天皇は、吉野川の上流で祭祀を行う前に「宇陀地方」を征圧しています。

宇陀には貴重な「水銀朱」の鉱脈がありました。

その希少価値の水銀朱を塗布した土器を製作したとみられます。

 

魚が水面に浮かんだのは、お神酒に酔ったのでなく土器から流れる水銀の毒によって、呼吸困難に陥ったものとみられます。

そしてその土器によって祭祀性を誇示することが、古代人にとって宗教的なカリスマ性を供えた為政者としてふさわしかったのでしょう。

……と、当初は思っていたのですが、まさしく神武天皇が土器祭祀を行ったとされる地にある、丹生川上神社中社の神職の方から、ご教示をいただきました(拝)

土器に入っていたものは?

丹生川上神社中社の神職の方のお話によると、

「神武天皇が川に沈めた土器には、”ハジカミ(山椒)”をすりつぶしたものがはいっていたのではないか?ということです。

その麻酔の効力によって、魚は一時的に気を失って漂うけれど、再び蘇生します。つまり、気を失った魚を捕ればいいので、労せずしてたくさんの魚を得ることができるんです。

そうしたことで、神武天皇は、地元の人たちの賞賛を得たんじゃないかな?」

とのこと。

なるほど!実にナットクのいく説明でした。

“ハジカミ(山椒)”は、『久米歌』(神武天皇の軍を鼓舞するのに歌われた歌)」にも歌われます。

「魚を殺しちゃったら、怖がって近づきませんよ(笑)」なんとも、お恥ずかしい考察をしてしまいました。

 

……ですが、現地を訪れて、『古事記』『日本書紀』を地道にご研究されている神職の方のお話しを伺えご教示をいただいたことは、実に大きかったです!

このようにして、『古事記』『日本書紀』の考証や解釈は進んでいく、という思いを深くしました(拝)

 

朱色というのは、縄文人が特別の思いを込めた色であったようです。

朱塗りの櫛を髪にさし、お守りにしていました。

イザナキノミコトも、スサノオノミコトも、髪に櫛をさしていた記述があります。縄文時代から、引き継いだ風習でした。

朱は、木や土の器に塗布され、葬送にも使用されました。

 

青森県八戸市の是川遺跡は、縄文時代後期から弥生時代の遺跡ですが、見事な朱塗りの土器が製作されています。

縄文時代の「赤色土器」の伝統は、次の弥生時代にも継承されたのです。

神武天皇が、土器の祭祀を行う様子は、縄文時代から継承された精神のようにうかがわれます。

ドングリが落ちる橿原神宮の散策 

『古事記』『日本書紀』の神武天皇の遷都や祭祀の記事からは、7、8世紀の宮廷人の文化から、はるかに遡る、弥生時代さらに縄文時代にさかのぼって、解釈を深める事項が内包されています。

そうしたことを念頭において、博物館に展示された数々の弥生土器、縄文土器を眺めると、新たな感慨が湧いてくるのではないでしょうか。

 

神武天皇が即位したのは大和の「橿(かしはら)の宮」です。

カシノキは、クリ、トチ、シイなどと並んで、縄文人が実を食用とした大切な樹木です。

初代神武天皇が、大和の国を象徴する三輪山の杉でなく、筑紫の国を象徴する楠(くすのき)でなく、「カシ」を選んだところにも、縄文時代から流れる精神を感じます。

 

ある年の9月の終わりに、奈良県の橿原神宮を散策した時、たくさんのドングリが落ちていました。

お守りにいくつか拾ってきました。

ドングリは、長持ちします。貯蔵が可能な貴重な食料源です。

……少女の頃拾ったドングリを、ずっと箱にしまっておいたのですが、何十年もたってから、息子がおままごとでお鍋に入れて使ったのでした^^

 

……

橿原神宮の森は、常緑照葉樹林のカシノキが生い茂る神域です。

落葉広葉樹林の恩恵を受けた東日本の縄文人でしたが、西日本には常緑の照葉樹林が広がっていました。

落葉樹の森

その東日本の文化と西日本の文化の融合を象徴するような「カシノキ」の生い茂る地に宮を置いて、名称として残したことは実にスバラシイことではありませんか!

海洋・狩猟採集の縄文文化と、農耕の弥生文化を統合し、初代天皇として即位した神武天皇ゆかりの宮に、実にふさわしい神域に思われます。

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