ヤマトタケルから継体天皇へ

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こんにちは、yurin(ユーリン)です。

身近な自然から遠くの史跡まで、心に残る旅をつづけています。

『古事記』『日本書紀』に登場する人々の多くは「実在しない」と言われますが、
フィールドワークを重ねるうちに、オセロの黒が白にかわるように、
次々と実在感が増してきます。

昨年、鳥取市で講演した時、休憩時間に声をかけて下さる方がいらして、
「こんなふうに『古事記』を読んでいたら楽しくてしょうがないでしょうね」

「はい、とどまるところなく面白いです!」と、即座に申し上げました(微笑)

1.山上へ神像を運ぶ 

最近いただいた「景行天皇と日本武尊」のメールの感想の中にも、
郷土に伝わる日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承とともに、
ヤマタケルへの真摯な思いが溢れる文章にふれて、胸が熱くなりました。

群馬県片品村の武尊山(ほだかやま、2158m)の山頂へ日本武尊(やまとたけるのみこと)の神像を
背負って登った人たち
のお話しだったのです。

……この地域の守り神であってほしいとひたすら願って……

その村人たちのヤマトタケルへの思いにふれたときに、もう一つの神像がうかんだのです。

それが継体天皇の神像です。

2.越(こし)とゆかりの継体天皇

福井県を流れる大河―九頭竜(くずりゅう)川―その支流の足羽(あすわ)川に添って開ける
福井平野の中心に足羽(あすわ)山(116.5m)があります。

市民のいこいの森の山上の「継体天皇の像」もまた、
ひたむきな地元の人々の思いによって運ばれたものです。


足羽山 継体天皇像

他国でお生まれになった継体天皇ですが、
福井平野の治水など、民政に尽力したお人柄を偲んで建立されました。

ローマ市街にあふれる洗練された彫刻でなくても、
むしろ地元の方々の素朴な信仰心を感じさせる、忘れ難い石像です。

仙人の面影を残しつつも暖かな継体天皇のお姿にふれたとき、
ようやくここまできた、という感慨が深かったです。

石像のすぐ下には、足羽神社があり、継体天皇をお祭りしています。

さすがに継体天皇の実在は疑われませんが、
30代くらいまでの大化前代までの天皇は、
高校の教科書には記されていません(泣)

それで、古代史ファンなら真っ先に入り込む
「邪馬台国」に始まり、神武東遷、
倭の五王、四道将軍、大化の改新、

白村江の戦い、壬申の乱、
高天の原・出雲・越(こし)の神話、
縄文文化と弥生文化……を経て、

継体天皇の像にたどりくまで申し訳ないほど
長い年月がかかってしまいました。

2015年の北陸新幹線の開通は、
やはり千葉県に生まれ育った私にとって、
いにしえの越(こし)の国への心理的距離を、一挙に近くするものでした。


足羽山公園の茶店

3.父を亡くし成人まで越(こし)で育つ

継体天皇は、第26代の天皇として、
越前の国(福井県)から大和(奈良県)へ入りました。

『日本書紀』によれば、男大迹王(おおどおう)、後の継体天皇の父の彦主人王(ひこうしのおう)は
近江の国(滋賀県)の高島から、越前の国の三国へ使いを遣わしました。

美しいと評判高い振媛(ふりひめ)を迎え、召し入れて妃としたのです。

振媛は、第12代垂仁天皇のご子孫です。

そしてめでたく男大迹王(おおどおう)がお生まれになりました。

父上は他国から妃を迎え入れるほどですから、相当な有力者であったのでしょう。

ところが男大迹王(おおどおう)が幼くして、父上が亡くなってしまったのです。

母の振媛は、嘆いて幼い御子を連れて実家のある
高向(たかむこ)―今の福井県坂井市丸岡町―へ帰り、父の忘れ形見を大切に養育したのです。

その母と周囲の愛情に育まれて、
男大迹王(おおどおう)は無事に立派に成人しました。

丸岡町高田には式内社(『延喜式』の神名帳に記載されている神社)高向神社があり、
振媛が祭られています。


坂井市 高向宮跡の振姫

4.古代天皇家の中興の祖

おりしも畿内大和の天皇家では、
身内どうしの相続争いが続いて、
跡継ぎになるべき皇族が減少し、

ついに第25代の武烈天皇は、
皇太子のないままこの世を去ってしまいました。

このような恐ろしい骨肉の争いを赤裸々に記すところに、
『古事記』『日本書紀』の真実味を感じます。

日本武尊の御子の、第14代仲哀天皇の子孫である倭彦王(やまとひこのおう)を
天皇に迎えるための使者と兵士を、遣わしたところ、

倭彦王は、我が身に危害が加わるとおそれをなして、遁走し行方知らずになった、
などという記事もあるのです(真っ青!)

畿内周辺には、天皇になるべき皇族がおらず、第15代応神天皇から分かれた血筋の5代目の、
男大迹王(おおどおう)に白羽の矢が立ったのです。

朝廷の有力家臣の大伴金村(おおとものかねむら)は、
慎んで天子の御璽(みしるし)の神器を奉って、
男大迹王(おおどおう)に拝礼してお迎えしました。

こうして即位した継体天皇は、第24代仁賢天皇の皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を妃として、後の欽明天皇がお生まれになりました。

そのご子孫が現在の第125代今上天皇まで続いています。

この継体天皇からでさえ、日本の天皇家は、現存する世界最古の王朝なのです!

スゴイことですね!

まさに継体天皇は古代天皇家の中興の祖というべきお方でした。

5.ふるさとの偉人への追憶

継体天皇が長い年月を過ごした福井県は、
古く「越(こし)」と呼ばれました。

敦賀市の気比(けひ)神宮から、越の海の鎮守とされる、
新潟県西蒲原郡の彌彦(やひこ)神社を経て
津軽半島までも包括する広大な地域を、「越(こし)」と呼んでいたようです。

考えてみますと、ペリーの黒船が来航するまでは
日本と外国との交流はまず日本海側からなされ、先進文化は摂取されたのです。

後世の加賀百万石の文化力、関東の小田原城を包囲した上杉謙信の実力などは、
その時代だけで一朝一夕に築かれたものでなく、

越(こし)の人々の強靭な精神力の蓄積を感じさせます。


加賀百万石まつり

さらに古代に遡れば、縄文時代の巨木文化、
玉作り、火焔土器、漆塗り、越後上布、祭り…などにも、
越の人々の精神の源流をみる思いがします。

スサノオノミコトが退治したヤマタノオロチは
「高志(こし=越)のヤマタノオロチ」と記されています。

日本武尊から継体天皇へと思いをはせて……

たとえ生まれが他国でも、その土地へきて善政を尽くした偉人たちを
大切にお祭りし、語り継ぐ……
その民人のひたむきな真心に打たれるのです。

そういえば金沢市の兼六園の一等地にも、
若々しく愛らしくも堂々と立つ日本武尊の前で、
海外からの人々が、次々と記念撮影をしていました。


金沢市 兼六園の日本武尊

日本の古典から描く古代史像、人物像、キラリと光るいい話、心に残る自然や史跡……
その楽しみを共有できたらうれしく思います。

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