こんにちは!yurinです。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から時代が下り、第12代景行天皇が行幸されて「大和は国のまほろば」の歌を読んだとされる「丹裳(にも)の小野」は、西都原古墳の台地の一角とされます。
西都原古墳群
たおやかな山々を見渡す西都原の野原に立つと、確かに畿内大和を思い出させる風景が広がっていました。
第12代景行天皇の九州遠征
『日本書紀』景行天皇12年、
熊襲(くまそ)反(あおむ)きて、朝貢(みつぎものたてまつ)らず
(南九州の熊襲(くまそ)などの部族は、朝廷の意向に反して、定期的な租税を納めてこなかった)
と書かれています。
一度は朝貢してきた部族たちも、時間が流れて怠る者もでてきたのでしょう。
租税制度を定着させる道筋は、容易なことではなかったと推察されます。
ですが、それでは日本という統一国家は成り立ちません。
天皇は、朝廷に従わない熊襲への遠征を断行します。
初代神武天皇が畿内大和へ東遷した時代から100年以上経て、再び九州地方は朝廷に従わないものもでてきたのでした。
『日本書紀』には、
(景行天皇は)日向国(ひむかのくに)に着いて、行宮(かりみや)を建ててお住みになった。これを高屋の宮という
とあります。
景行天皇は高屋宮を本拠地として、熊襲国(くまそのくに)を平定しました。
地元の伝承では、景行天皇は「都萬郡高屋宮」に行宮を置いて駐留したとされます。
都萬神社にでは、「妻(つま)の大太刀」と言われる日本一長い3.54m大太刀が社宝になっています。
室町時代の宝徳24年(1450)、地元の住人の日下部成家が奉納したものです。
景行天皇が太刀を奉納して賊徒(ぞくと)平定を御祈願された故事にならってのものだそうです。
このように「高屋宮」は、西都市の説もありますが、一方で大淀川が流れる宮崎市にあったとする説もあります。
宮崎市には神武天皇の高千穂宮とされる宮崎神宮もあります。
景行天皇は宮崎市方面から西都市へ足を運んだとも考えられます。
「丹裳(にも)の小野」といわれる西都原の台地の一角です。
つかの間の休息や遊興の意味合いもあったようです。
(景行天皇の)13年5月に、襲国(そのくに)をすべて平定された。このようにして高屋宮に居住されること6年となった。その国に御刀媛(みはかしひめ)という美人がいた、天皇は、すぐに召し入れて妃とされた。妃は、豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を産んだ。これが日向(ひむか)の国造(くにのみやつこ)の始祖である
「御刀媛」(みはかしひめ)は、景行天皇が都萬(つま)神社に奉納した大太刀と関係がありそうな名称です。
「大和は国のまほろば」を歌い継ぐ
『日本書紀』には次のように記されています。
(景行天皇は)子湯県(こゆのあがた、宮崎県児湯郡・西都市付近)に行幸して、丹裳(にも)の小野(おの)に遊ばれた。その時、東方を望んで『この国は、日の出る方向に面している。』と仰せられた。それでその国を日向という
もともとある地名、あるいは新たな地名を、皇族によって認証するというパターンは、古代にしばしばあったようです。
「日向の国」は景行天皇によって正式名になったのです。
愛(は)しきよし 我家(わぎへ)の方ゆ 雲居(くもい)立ち来(く)も
倭(やまと)は 国のまほろば 畳(たたな)づく 青垣(あおがき) 山籠(やまごも)れる 倭(やまと)し麗(うるわ)し
命の 全(また)けん人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 白樫が枝を鬘(うず)に挿(さ)せ この子
(ああ、なつかしいふるさとの我が家の方から、雲がわいて流れることだ。大和は国の中心のすぐれた所、青々とした山々が重なり、垣根のように取り囲む大和の国こそ、すばらしい。元気に無事に帰還したら、平群(へぐり)の山の白樫の枝を髪飾りにして遊びなさいよ)
この歌は、語順や言葉が少し違うところもあるのですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、大和への帰還目前に、臨終で歌った歌として『古事記』に載っています。
果たして景行天皇と日本武尊のどちらが歌ったのか?景行天皇も日本武尊も実在しないのだから、2人が歌ったものと仮託した、などの解釈もなされます。
……ですが、『古事記』『日本書紀』は、初期大和朝廷の皇族たちが、日本列島の東へ西へと遠征したことを記します。
大和朝廷の草創期に、汗を流し足を棒にして命をかけた皇族たちがいたからこそ、今では世界で現存最古となった王朝の礎(いしずえ)を築けたのではなかったでしょうか。
そのように汗水流した統治者だからこそ、多くの人心を掌握できたのだと思うのです。
そして地方へ派遣された皇族たちが歌い継いだ歌謡があった、と考えるのは自然です。
娯楽の少ない古代において故郷を遠く離れた地で、歌を歌い、励まし合い、慰め合って、遠征を続けて帰還したものと思います(大涙)
初代神武天皇や第12代景行天皇そして皇族将軍たちが、率先して軍を指揮した時代があって、日本という国は、部族国家から統一国家へとなっていったのではないでしょうか。
そして租税制度や法律を行き渡らせて東アジアから世界へ認められる国家になったのだと考えます。
『古事記』『日本書紀』『風土記』など上代古典の記述は大筋で一致して、情報を補い合っています。
地元の伝承もそれを支持しているのです。