景行天皇の求婚場面に三種の神器?

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こんにちは!yurinです。

日本武尊(やまとたけるのみこと)の母で、景行天皇の最初の妃の播磨稲日大郎女(はりまのいなびのおおいらつひめ)は、別伝では稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)ともいわれました。

『播磨国風土記』には、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)とあります。

 

播磨(はりま)は現在の兵庫県西南部地域のことで、加古川市や稲美(いなみ)町があります。

文献によって表記は異なるものの、いずれも同一人物で、「印南の若いお姫さま」あるいは「印南の若いお嬢さま」というような意味です。

印南=稲美です。

家柄がよく、美しく評判のお嬢様だったのでしょう。

景行天皇は最高の正装をして播磨へ

ここからは、播磨稲日大郎女を、地元の地名に因んで「稲美姫(いなみひめ)」と書きますね。

『播磨国風土記』の賀古(かこ)の郡の条には、景行天皇がこの稲美姫に求愛したようすがわりと詳しく述べられています。

賀古郡は加古川の下流域です。

 

昔、大帯日子命(おおたらしひこのみこと)、印南(いなみ)の別嬢(わきいらつめ)を妻問(つまど)いたまいし時、御佩刀(みはかし)の八咫(やた)の剣の上結(うわゆい)に八咫(やた)の勾玉(まがたま)、下結(したゆい)に麻布都(まふつ)の鏡を掛けて

(昔、大帯日子命(おおたらしひこのみこと、後の景行天皇)は、印南別嬢(いなみのわきいらつめ、稲美姫)に結婚を申し込もうとされた時、腰に長い刀を下げて、大きな勾玉を上飾りとし、神聖な鏡を下飾りとして身に着けていらっしゃいました。)

 

賀毛(かも)の郡(こおり)の山直(やまのあたい)らが始祖(とおつおや)息長命(おきながのみこと)〔またの名は伊志治(いしじ)〕を仲立ちとして、妻問い下り行(い)でましし

(そして賀毛(鴨)郡(加古川の中流域)の山の直(あたい=地方の長官)たちの先祖の息長命〔またの名を伊志治〕(おきながのみこと。またの名をいしじ)を仲人として、結婚を申し込むために訪れたのでした……)

 

景行天皇の『日本書紀』に記された正式名称は「大足彦忍代別天皇(おおたらしひこのおしろわけのすめらみこと)」で、その一部「おおたらしひこ」が、地方で伝承されたのです。

 

稲美姫を妻にするため、みずから播磨へやってきたのでした。

腰には二本の帯(ベルト)を巻き、八咫(やた)の剣を腰に差し、上の帯には八咫の勾玉をかけ、下の帯には神聖な麻布都(まふつ)の鏡をかけていました。

 

剣・玉・鏡の三点セットといえば「三種の神器」として、まさしく天皇家を象徴する宝物です。

景行天皇は、最高の正装をして訪れたのでした!

 

若々しい景行天皇の心づかいと意気込みが感じられて、微笑ましくなります。

「天皇」とありますが、実際はまだ即位する前の皇子の時代のできごととみられます。

父の垂仁天皇から「しっかりやってくるように」と念を押されていたのでしょう^^

渡し守(もり)にきらめく髪飾りを渡す

摂津国(大阪府北西部と兵庫県の東南部)の高瀬の渡し場までやってきて、岸辺にいた渡し守(もり)に川を渡してくれるように頼んだのでした。

景行天皇と渡し守

画:川崎日香浬氏

その時に渡し守が、「天皇さまだけの使用人ではないので」と一度は断るのですが、それでもなお景行天皇がお願いすると、なんと!「渡し賃をお願いします」と求めるのでした!

すると、天皇は怒ることなくむしろ思い切りよく、旅装用に身に着けていた髪飾りを取って、船賃に渡したのでした。

 

道行(みちゆき)の儲(まけ)と為しし弟蘰(おとかづら)を取らして、舟の中(うち)に投げ入れたまえば、すなわち蘰(かづら)の光明(ひかりかがやき)て舟に満ちぬ。

渡し守、賃(つぐのい)を得て、すなわち渡しまつりき

 

景行天皇が舟に投げ入れた髪飾りは、キラキラ光り、まばゆいほどにあたりを明るくした、と語り継がれるほどでした!

この婚礼にかける景行天皇の意気込みが感じられますね^^

……「あの時の天皇さまは、実に見事なまばゆいほどの髪飾りをくださったのものよ」……と得意げに語った渡し守の声が聞こえてくるようです^^

 

「河を渡る」ことの困難さが伝わってきます。

結納の儀式のための御祝儀ではという説もあります。

大軍勢を引率しての遠征でなく、若い皇子のプライベートなお出ましの様子が偲ばれて微笑ましいです^^

加古川河口の南毗都麻(なびつま)の島

こうして川を渡り近づいてくる景行天皇の様子は、いよいよ稲美姫にも伝わってきたようです。

その時、印南(いなみ)の別嬢(わきいらつめ)、聞きて驚き畏(かしこ)み、やがて南毗都麻(なびつま)の島に遁(に)げ渡りき。ここに、天皇(すめらみこと)、すなわち賀古(かこ)の松原に到りて、覔(ま)ぎ訪いたまいき。

(その時、稲美姫は、伝え聞いて驚いて、恐れ多いと南毗都麻(なびつま)の島に渡って逃げていった。そこで天皇は、賀古(かこ)の松原に到り、結婚を申し込まれた。)

 

ここに、御舟(みふね)と別嬢(わきいらつめ)の舟と同(とも)に編合(むや)いて渡り、梶取(かじと)り伊志治に、すなわち名を大中(おおなか)の伊志治(いしじ)と名付けたまう。

還(かえ)りて、印南(いなみ)の六継(むつぎ)の村に到り、始めて密事(むつびごと)を成したまいき。

……こうして御舟と稲美姫の舟を綱で結んでつなげて渡った。かじ取りの伊志治(いしじ)を「大いなる仲人の伊志治」と名づけられた。こうして印南(いなみ)の六継(むつぎ)の村に戻り、初めてお二人は結ばれました)

 

稲美姫は、天皇が到着を聞くと、驚きおそれかしこんで、南都麻(なびつま)の島に逃げ渡ったのです。

これは、古代の風習に基づく行動ともいわれています。

南毗都麻の島とは、もとは印南川(加古川)河口にあった小島で、現在の高砂市の一角になったものとみられます。

 

稲美姫に逃げられたときいて、景行天皇は「賀古(かこ)の松原」あたりをさがしまわりました。

賀古の松原とは、加古川河口の海辺にある松原のことで、現在の尾上町の「尾上の松」あたりのことといわれています。

南毗都麻の島のあったとみられる高砂市は、加古川の対岸です。

 

ようやく景行天皇は、自分の舟と稲美姫の舟を縄でつないで島から帰ってくることができました。

こうしてお二人は結ばれたのです。

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つづく

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