こんにちは!yurinです。
『日本書紀』を読んでいると不思議に思うことが出てきます。
その一つが高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)という神さまです。神話の神々の中では、印象が薄い神さまでした。
ところが、南九州を出立した神武天皇がいよいよ大和入りの最終決戦に及んだとき、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が憑依した……という場面があるのです。
あらっ、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)はそんなに大切な神さまだったかしら?……そこで再び『日本書紀』を丹念に読んでみると、高皇産霊尊の重要性が認識されてきました。
目次
紀伊半島の南端の熊野方面から大和を目指す
神武天皇は南九州を出立して、筑紫の島から瀬戸内海を順調に進行して畿内の生駒山麓に上陸しました。
今の東大阪市の石切劔箭(いしきりつるぎや)神社付近です。物部氏の子孫、穂積氏が連綿と神職をしている神社です。
この地に上陸した皇軍が生駒山を越える道を進軍すると、待ち構えていた長髄彦(ながすねひこ)の攻撃を受けたのでした。
孔舎衛(くさえ)の戦いといわれる激戦です。
この戦いで兄の五瀬命(いつせのみこと)の戦死、という大敗北をしたのです(大涙)
けれども、神武天皇は不屈の精神をもって再起をはかります。国家統一という高い志があったのでしょうか。
先に饒速日尊(にぎはやひのみこと)とともに下った氏族たちが、神武天皇に味方してくれたのは、大きな支えだったでしょう。
長髄彦(ながすねひこ)に阻まれたので、紀伊半島の南端を回り、熊野川に添って北上するという大迂回ルートをとることに方針を転換します。
八咫烏(やたがらす)と大伴氏先祖の日臣命(ひのおみのみこと)に導かれ、大和入りまであと一歩の状況というところまで到達したのでした。
これについてはブログを書きましたので、お読みいただければと思います。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の霊が神武天皇に憑依(ひょうい)
ここで神武天皇はカリスマ性を供えた司祭者として、信頼できる為政者(いせいしゃ)の風格を示しました。
『日本書紀』は次のような神武天皇のお言葉を記しています。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の霊が憑依(ひょうい、乗り移る)して、まさしく私の身に依り付き、現世に表れる。お前は祭主として厳姫(いつひめ)になるようにと。
道臣命(みちのおみのみこと)を厳姫(いつひめ、神聖な女神)に見立てて祭主とし、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が憑依した神武天皇とペアで祭祀を施行したのです。
このとき、神武天皇が施行した土器祭祀についてはこちらのブログをお読みください。
『日本書紀』によれば、神武天皇は、腹心の椎根津彦(しいねつひこ)を、変装させて天の香具山へ派遣し、埴土(はにつち)をとりにいかせます。
そして霊力ある土で土器を製作して神々をお祭りしたのです。そうした神武天皇の姿勢は、土器の祭祀性を伝える貴重な証言といえそうです。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が憑依した神武天皇は、神々しい朱色の土器と、命あるものの蘇生の祈りによって、宗教性を供えた為政者としての貫禄を示したのでした。
神武天皇が祭祀を行った丹生川上(にうかわかみ)神社
奈良県宇陀市や東吉野村には神武天皇が祭祀を行ったという神社が伝わります。
奈良県東吉野村の丹生川上神社中社の地は、紀ノ川水系の吉野川の源流域にあたります。
深い青緑の透明な流れが、神社の前を神秘的な神域の雰囲気を醸して流れています。
その流れに臨む地に「神武天皇聖蹟顕彰碑(じんむてんのう せいせき けんしょうひ)」が建立されていました。
丹生川上神社には、上社・中社・下社があり、聖蹟顕彰碑が建っているのは中社です。
神武天皇の東征経路と神武天皇聖蹟顕彰碑
- 莵狭(うさ)(宇佐市宇佐神宮北)
- 崗(おかの)水門(みなと)(遠賀郡芦屋町神武天皇社境内)
- 埃宮(えのみや)・多祁(たけ)理宮(りのみや)(安芸郡府中町多家神社南)
- 高嶋宮(岡山市宮浦高島)
- 難波之碕(なにわのさき)(大阪市中央区大阪天満宮境内)
- 楯津(たてつ)(東大阪市孔舎衛小学校東)
- 孔舎(くさ)衛坂(えのさか)(東大阪市日下町山中男里天神の森公園)
- 雄(おの)水門(みなと)(泉南市)
- 男(おの)水門(みなと)(和歌山市水門吹上神社境内)
- 名(な)草邑(くさむら)(和歌山市広原)
- 五(いつ)瀬(せの)命(みこと)竃(かま)山(やま)墓(和歌山市和田竃山神社)
- 狭(さ)野(の)(新宮市佐野)
- 熊野神邑(くまのみわむら)(新宮市阿須賀神社境内)
- 莵田穿邑(うだのうがちのむら)(宇陀郡宇賀志村)
- 莵(う)田(だ)高倉山(宇陀市大宇陀区高倉山頂)
- 丹生(にう)川上(吉野郡東吉野村丹生川上神社中社摂社丹生神社北)
- 磐余邑(いわれむら)(桜井市吉備、春日神社北)
- 鵄邑(とびむら)(生駒市上町)
- 狭(さ)井(い)河之上(かわのかみ)(桜井市狭井神社北)
- 鳥(とみ)見山中霊畤(のやまのなかのまつりのにわ)(桜井市鳥見神社南)
- 橿原宮
(11竃山墓と21橿原宮は調査前の認知事項)
「高千穂宮(たかちほのみや)」「速吸之門(はやすいのと)」「一柱騰宮(ひとつあがりのみや)」「岡田宮」「血(ち)沼(ぬの)海(うみ)」「天(あまの)磐(いわ)」「熊野(くまの)荒坂津(あらさかつ)」「吉野」「国見(くにみの)丘(やま)」「忍坂(おさかの)大室(おおむろ)」「高佐(たかさ)市野(じの)」「腋上嗛間(わきがみのほほまの)丘(おか)」については、決定を見送った。
幽境の地での必勝の祈りを捧げ、大自然と人心の力を得た神武天皇は、いよいよ最終決戦に臨んだのです。
東吉野村の隣宇陀市大宇陀に阿紀(あき)神社があります。
後に第11代垂仁天皇の皇女が天照大神を祭る「元伊勢」の一つですが、神武天皇が祭祀を施行した地ともされます。
もとは出雲氏族が開拓統治し、大国主命一族の秋姫に祭らせたことからの地名とされます。
このような拠点集落には時代を経て重ねて重要人物が運ぶのでした。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の門出を祈る高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)
『日本書紀』で、神武天皇に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の霊が憑依したというのは、大変に重みがある記事です。
さらに『日本書紀』の神代の記事に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨するときに、次のようなはなむけのお言葉がありました。
吾は天つ神籬(ひもろぎ)と天つ磐境(いわさか)を起こし樹(た)てて、まさに吾孫(すめみま)のために斎(いわ)い奉(まつ)たらん
天照大神の御子の天忍穂耳尊(あまのあしほみみのみこと)と、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津媛命(よろずはたとよあきつひめのみこと)の御子。
それが瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、高皇産霊尊にとって、娘が産んだ目にいれてもいたくないほどに可愛い孫だったのです^^
その孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のために神々が降臨する樹木と巨岩で祭祀場を築き、行く先の幸(さいわい)を祈ったのでした。
後世に天皇の系譜の「皇統」は、天照大神の子孫として「天孫(てんそん、あめみま)」とよばれますが、同じように高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫として「皇孫(こうそん、すめみま)」ともいわれ、つまり二神は重要な皇室の先祖とみられてきたことが再認識されます。
- 天照大神の子孫→天孫(てんそん、あめみま)
- 高皇産霊尊の子孫→皇孫(こうそん、すめみま)
以上のように『日本書紀』で大和入りの最終決戦に挑む神武天皇の記述から、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)がいかに重要な人物であったか、認識されるのです。
高皇産霊尊は宮中に奥深く大切にお祭りされてきました。
…………
10月22日はいよいよ即位礼正殿の儀、11月14日は大嘗祭が施行されます。
古代史日和では、それをお祝いし、古代史学者の安本先生をお招きして「『日本書紀』神武天皇東征伝承6つの謎」の勉強会を企画しました。
→終了しました
すでに満席をいただいていてますが、記念すべき令和元年に実にふさわしく、とても楽しみです^^