こんにちは!yurinです。
今日は建国記念の日。
神武天皇のふるさと、宮崎県高原町の狭野(さの)神社を始まりにゆかりの地を巡り、神武天皇ふるさとの一族に思いを馳せたいと思います。
南九州の活火山霧島山の麓に「日本で最も美しい村」連合の一つ、高原町があります。
大自然に抱かれて、両親や兄弟に温かく見守られ、健やかに成長されたお姿が偲ばれました。
高原町から霧島山
目次
天孫降臨ゆかりの高千穂峰とされる霧島山
年間の祝祭日の中でも、何かと物議をかもしだす祭日ですが(汗)、もとより神武天皇が即位した正式な日時を、現代からさかのぼって考証するのは、難しいところです。
ですが、こうした祝日に、現存する世界最古の王朝となった天皇家を創始した神武天皇の故事を偲んであれこれ思いを巡らすことができるのは、日本人として実に誇らしいです。
古典にはこのように書いてあります。それに因んでこのようなスポットがあります……というようなお話しを海外の方々も知りたがっているのではないでしょうか。
日本の天皇家の祖先ゆかりの地は、豊かで美しい自然との出会いがあり、感動させられる場所が多いです。
そうした大自然の中に足を運んで、今は神となった方々に思いを馳せるという旅が楽しくて、その思いをお伝えできればと思います。
南九州の宮崎県西諸県郡(にしもろかたぐん)高原町(たかはるちょう)は、宮崎県南西部、鹿児島との県境にある霧島山(1574m)を仰ぐ、霧島連山の東山麓にあります。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天の原から天孫降臨した日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の峰とされます。
『日本書紀』神代の天孫降臨の段に、次のようにあります。
皇孫(すめみま、瓊瓊杵尊)は、天磐座(あまのいわくら)を離れ、さらに天八重雲(あまのやえくも)も押し分けて、神霊の力が宿る道をかき分けて進んで、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峰(たかちほのたけ)の天降りなされた
神話の高千穂山は、宮崎県高千穂町の山と鹿児島県の霧島山が、古くから論争の対象になってきました。
おそらくは、北部九州から宮崎県を経て、南九州の鹿児島県地方まで統治を広げた、高天の原勢力の人々が移動に従って同じ地名をもたらしたものとみられます。
どちらの地にも瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から神武天皇にいたるゆかりのスポットが点在します。
神武天皇の祖父母、父母、兄弟、妃と皇子の由緒を伝えるのです。
現代から見れば、まさしく「神武天皇のふるさとゆかりの神々」といえるのでしょう。
霧島山山麓の狭野神社に祭られる神武天皇
宮崎市内から高速道路で高原町へ向かうと、広くすそ野を広げた山塊の中に円錐形の主峰をもつ霧島山が見えてきます。
神武天皇の故郷に近づき、期待がふくらみました。
高原町のインターを降りると、のどかな田園風景と点在する集落の向こうに、高々とそびえ立つ霧島山を仰ぎます。
こんなにも近くに活火山を仰ぐ風景から、浅間山を思い出しました。
ですが、すでに晩秋に向かう季節に、オレンジ色のキンカンの彩りがあって、ここが南国の地であると気づかされます。
温暖な気候の地域の千葉県でも、お正月の頃にまだキンカンは色
11月の終わりとは思えないほどの小春日和の暖かさです。
霧島山を仰いで高い志(こころざし)を育んだことから、幕末の志士たちを想起します。
この南九州の地から京都へ上り、さらに江戸まで到達して、明治維新を成し遂げたのです。
日本史の転換点を築いた支配者の人々の足跡は実に遠大で、東京のすぐ隣りに生まれ育った私には、歴史上の大人物たちの屈強な体力と精神に、頭が下がるばかりです。
そんな思いを巡らせていると、狭野神社の真っ赤な鳥居と参道に着きました。
神武天皇は『古事記』に「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、『日本書紀』に「神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)とあります。
そして『日本書紀』の一書(別の言い伝えを書いた記)で「狭野尊(さののみこと)」とあるのです。
「かむやまといわれびこのみこと」は、神武天皇が大和に東遷した後に称えられた御名で、幼名は出生地に因んで「狭野尊(さののみこと)」と呼ばれていたのでしょう。
そして平安時代になって、淡海三船(おうみのみふね)によって「神武天皇」とおくり名がつけられたものとみられます。
これについてはブログで書きましたので、ご興味のある方は合わせておよみいただければと存じます。
考えてみれば『日本書紀』の一書にだけ記された「狭野尊(さののみこと)」の「さの」を手がかりに、これほどの神武天皇ゆかりの地が広がることに、限りなくロマンを感じます。
後世の人々によって付加されたものがあったにしても、地元の方々の神武天皇への思いが深かったからこそ、たくさんのゆかりの地を伝えたと言えるではないでしょうか?
国指定の天然記念物の杉並木参道
狭野神社の一の鳥居から本殿までの約一キロの間、「狭野杉」と呼ばれる杉並木の参道が続きます。
薩摩の島津義弘(1535~1619)が、朝鮮出兵の際に武運を祈願し、帰国後に苗木を植えたものです。
海外との戦争に赴き、無事に帰国できた武将の深い思いを感じます。
当時400本あったとされる杉も、今は20本ほどになってしまっています。
しかもおりしもの台風の後で、今年の台風被害は各地に痕跡を残していました。
度重なる災害を乗り越えた杉の巨木がそそり立っています。
社伝によると創建は第5代孝昭天皇の時代とされます。
孝昭天皇の妃は、尾張連(おわりのむらじ)の先祖の一族の世襲足媛(よそたらしひめ)です。
尾張氏の先祖は、神武天皇の東遷を助けた高倉下(たかくらじ)こと天香山命(あまのかぐやまのみこと)です。
神武天皇の故郷へ格別の思いがあり、お祭りしたのかもしれませんね。
天香山命については、今年の初めのブログで書きましたので、参照していただければ幸いです。
神武天皇の先祖と妃を祭る狭野神社
活火山の霧島山噴火の災害を何度も受けて、平安時代の噴火の際には、社殿を東霧島神社に移して難を避けたとされています。
戦国時代に島津氏が現在地に再建しました。
多くの皇族の方々が参拝し、記念植樹をされています。
神武天皇をお祭りする神社は、なんといっても奈良県橿原市の橿原神宮が有名ですが、この神社は、明治時代になって創建された社です。
奈良県からは遠く離れた南九州で、神武天皇をお祭りする狭野神社。
祭神は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)を主祭神にして以下の神さまを祭ります。
- 吾平津媛命(あひらつひめのみこと…妃)
- 天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと…祖祖父)
- 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと…祖祖母)
- 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと…祖父)
- 豊玉姫尊(とよたまひめのみこと…祖母)
- 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと…父)
- 玉依姫命(たまよりひめのみこと…母)
このように神武天皇の先祖や、南九州の妃とともにお祭りする神社は、大和地方には見られないと思います。
真実味を感じます。
神武天皇が、南九州をふるさととし、この地から東遷へ旅立ったあかしなのでしょう。
境内を清らかな小川が流れて、杉の巨木に囲まれたおごそかな境内にたたずむと、祖父母や父母、地元の妃に囲まれた神武天皇の若い時のご様子が偲ばれてきます。
周辺には神武天皇生誕地の皇子原(おうじばる)をはじめ、ゆかりのスポットが点在します。
その地を巡る期待に胸がはずみました^^
勇壮な剣舞で知られる狭野神楽
狭野神社の12月初めの例大祭では、狭野神楽が夜明けまで奉納されます。
国の重要無形文化財に指定されています。
『続日本紀』(国史、797年)『令集解』(868年頃、養老令の注釈書)の「雅楽寮(律令制において歌や舞を司る職)」の記事に「諸県舞(もろかたまい)」として記されています。
師1人、舞人10人、歌師4人などで構成され、舞人8人が甲(かぶと)をつけ刀をもつことになっています。
剣舞に通じるとされる勇壮な舞だそうです。
狭野神社から西方1キロのところに神武天皇の生誕地とされる皇子原(おうじばる)の遺称地には、摂社の皇子原神社があり、周辺一帯は公園になっています。
皇子原神社
公園内に「神武の館」という資料館がありました。
大きな神楽のお面がデザインされてユニークな入り口で、その扉の左右を力いっぱいに開いて入館します。
天の岩戸の手力男命(たじからのおのみこと)をイメージしたのでしょう。
館内では、狭野神楽のフォトコンテストの入選作品が展示されていました。
「建国記念日 日本発祥地祭りフォトコンテスト」より
(「神武の館」掲示より)
平成26年から建国記念の日の2月11日に「日本発祥地まつり」が開催されているそうです。
師走の夜に舞われる狭野神楽が、建国記念日のお昼どきにも行われ、その時撮影された作品です。
遠方の来訪者には、フォトであっても狭野神楽に触れられてありがたかったです!
公園内の小高い丘の上にある皇子原神社からは、眼下に高原町を見渡します。
玉依姫命(たまよりひめのみこと)の産屋跡とされる一画に祠(ほこら)が建っています。
神武天皇がご生誕されたという場所には、産場石がありました。
近くの巨木の下には、神武天皇の腰掛石という巨岩もあります。
背後の野原で、弓を飛ばして戯れる2人の子どもの像は、神武天皇と兄の五瀬命(いつせのみこと)でしょうか?
狭野尊(さののみこと)こと神武天皇は4人兄弟です。
おりしも赤や黄の紅葉の彩りが目に染みて、なんとも「日本で最も美しい村」にふさわしく、3人の兄たちのあとについて駆け回る少年の姿が浮かんで、自然に微笑んでしまいます^^
美しい大自然の中で、家族の愛情を受けて健やかに成長されたのでしょう。この美しい村から神武天皇は旅立ったのです。
『古事記』『日本書紀』から伺われる神武天皇は、揺るぎない意志、安定感、人から信頼され人を信頼するお人柄を感じさせます。
その礎(いしずえ)はこの地で築かれました。
「ファーストエンペラーの地」を掲げて、世界へ発信する高原町の歴史や自然は、少しずつ認知されていくのではないでしょうか。将来が実に楽しみですね。