こんにちは!yurinです。
大和の香具山を思わす、日岡山(ひおかやま)の頂上に「日岡山古墳」があります。
日岡山
このような素晴らしい地に稲美姫を葬った、景行天皇の心づくしが偲ばれます。
三重県亀山市の日本武尊の能褒野陵の地を選定したのも景行天皇であったとみられます。
日本武尊 能褒野陵
能褒野王塚古墳
比礼(ひれ)墓に寄り添う景行天皇と日本武尊の御魂(みたま)
稲美姫のお墓は、明治16年「比礼墓」=「褶(ひれ)墓」に認定され、「稲日大郎姫命日岡陵」として宮内庁によって管理されています。
この「日岡陵」は、全長約87m、後円部東西径約49m、前方部前面幅約34m、前期型の前方後円墳です。
日岡陵には日岡神社があります。
日岡神社
日岡神社の近くには、日岡山3号墳や南東山麓には南大塚古墳、西大塚古墳、勅使塚古墳、北大塚古墳などの四基の前方後円墳のほか10基の小円墳がつくられています。
このうち小円墳数基は横穴式石室をもつ後期の古墳であることが確認されています。
稲美姫の一族は寄り添って眠っています。
『播磨国風土記』に記された「松原の御井」は、加古川市尾上町養田(ようだ)にある松原の清水といわれています。
このほかにも、景行天皇が稲美姫を妻問いに訪れたときの地名説話が『播磨国風土記』にいくつか紹介されています。
お二人の逸話は、地元ではよほど有名な逸話として語りつがれたものとみられます。
日本武尊の母、稲美姫
山上の日岡陵への石段をのぼりつめると、涙が湧いてきました。
日岡陵石段からの加古川の町を望む
過去のさまざまな人々と自分の思いが錯そうしたのでしょうか……
はるばる千葉から、この地へ来ての感動は大きかったのです(拍
大和朝廷の始まりの時代に、それぞれが、大きな宿命と任務を
このまま神武天皇が創始した大和朝廷を、確固たるものにして、日
あるいは、ついに一つの国にまとまることができずに、隣国の大き
西方へ断固として向かう景行天皇、父の意向をくんで東征へと向か
家族それぞれの生涯を『古事記』『日本書紀』だけで思い巡らすと
……ですが、思いがけず残された『播磨国風土記』によって、景行
愛する妻と、誇りの息子を手厚く葬った御陵からも、景行天皇の思
日本武尊の御子の足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)が、第1
兄の大碓命は、東征に行けない小心者でしたが、身近な人々を大切
そしてその後の
そのような大碓命の足跡も、少しずつご紹介できたらと思います。
そうした伝承地をたどると、『古事記』『日本書紀』の物語にも、
自慢の息子を亡くした景行天皇の哀しみも、伝わってきます(涙)
これについてはブログに書きましたので、合わせてお読みいただけ
離ればなれに暮らすことが多かった日本武尊の家族ですが、「日本
いつまでも地方ごとの部族国家のままでいるのでなく、世界に誇れ
確かにこの人々たちによって、日本という国の形は作られたのです
そして長い年月を経て、このように東(あづま)の国からも、この地を訪れることができる時代になっています。
それはとても有難く幸せなことです。
山上からは、加古川と市街地を見下ろす広々とした眺めが広がります。
……
各地で日本武尊や弟橘媛の像を見てきましたので、河村先生にこの日を報告しました。
日本武尊の像は、各地にありますが、埼玉県神川町の金鑚(かなさ
この日本武尊に、両親と兄も入れて欲しいな~~、心から願いまし
「もし日岡山に日本武尊の銅像を建てるなら、景行天皇と稲美姫に寄り添う日本武尊がいいですね。
奴奈川姫(ぬなかわひめ)と建御名方命(たけみなかたのみこと)みたいに。大国主命(おおくにぬしのみこと)とスリーショットもありましたし」
と私が言うと、
「お兄ちゃん、大碓命もぜひ入れてほしいな」
「ぜひ!ステキですね。景行天皇はウスをしょって……まさしく日本の象徴ですね^^」
そういえば日岡山のある加古川市は、東経135度の標準子午線の通る明石市のすぐ隣りでした!
日岡山の稲美姫は、日本列島のほぼ中央から四方を見据えているのでした!
この眺めを永遠のものとして眠っている稲美姫、日本武尊の母として、実にふさわしいです。